社会

2015年9月30日 (水)

5年ぶりに政治の話・・・安保法案の件で思ったこと

 このプログは、2010年の10月に始めたので、今月で丸5年が経ったことになる。細々とだが(本当に細々)、よく5年も続いたものだと、我ながら感心する。

 ちなみに第1回目の記事は、家庭教師のブログなのに、なぜか「貧者の兵器とロボット兵器」という、ある意味政治の話題だった。それから5年が経った今月、奇しくも安保法案の可決という、大きな政治的な動きがあったので、今回はそのことを書いてみたいと思う。

 ただ、安保法案に関連した一連の動きで、私が関心を持ったのは、法案に対する賛否とか、可決したことそのものよりも(一応私は賛成派だが)、反対運動をきっかけに生じた、庶民は法案に反対しなければならない、という空気感だ。

 その顕著な例が、ある有名人が、反対派の運動にちょっと異を唱えただけで、それどころか、賛成派の意見も聞きたいと言っただけで、SNSが炎上してしまったということだ。

 この過剰な反応は、当時から気になっていたが、政治家や官僚はともかく、一般国民は、自分たちに賛成してくれて当然だ、という思いがあったのだろうか。あるいは国会に法案を通されてしまいそうな状況の中、せめて庶民は自分たちの味方をしてほしい、という思いが強かったのだろうか。

 信念を持ってやっている行動に、異を唱えられるのは腹が立つというのは分かるのだが、それにしても、庶民は自分たちに賛成して当然とまでなるのは、行き過ぎだ。世論調査では、確かに反対派の方が多かったようだが、賛成派も一定数はいたわけだし。

 この現象で、私はあることが思い浮かんだ。それは、昔からある日本特有の「お上意識」だ。お上意識とは、上の人(例えば政治家や官僚)が何事も上手くやってくれるんだから、庶民としてはお任せして、それに従っていればいいんだよ、という感覚だ。

 とすれば、今回の件とはむしろ真逆ではないか、ということになるが、このお上意識には変形版がある(と私は勝手に思っている)。つまり、お上には従う(従わざるを得ない)けど、文句の一つくらい言わせてくれ、というものだ。

 お上は上手くやると言っても、場合によってはそうでない時もあるし、人によっては納得いかないということもある。そんな時でも、昔の(今もかな?)日本は得てして、お上の言う通りになるのだが、ただ言う通りでは、庶民の立つ瀬がない。だから文句くらいは言う権利があるのだ。ただし残念ながら、文句によって事態が変わることはない。なのでその分、どんなに厳しいことでも言えるし、また周りの人も、その文句に異を唱えてはいけないのだ。

 今回の安保法案への反対運動をした人たちが、実際にこうした意識で動いていたとは全く思わないけども、異を唱えられることへの過剰な反応が、事態は変わらないのだから、文句くらいは言わせてくれよ、といった上述のお上意識の変形版を、私に連想させた。それゆえ、どこか勢いの弱さを感じさせた。

 反対派はそうであって欲しかったのかもしれないが、安保法案は必ずしも、お上対庶民で、意見が分かれた問題ではない。上でも言ったように、一般国民にも賛成派は一定数いたのだから。なので本来なら、庶民で賛成派はけしからんと、切り捨てるのではなく、またお上だけと対抗するのでもなく、賛成派の庶民とも、対等な立場で意見をぶつけ合わせていくべきだったのではないかと思う。

 ちなみに最近よく思うのは、日本人は、この対等な立場で意見をぶつけ合わせていくのが苦手だな、ということだ。安保法案の件だって、賛成・反対に分かれるのは当然で、しかも本来は、中立な状態でどちらかが選べるはずだ。

 でも日本人は、中立な状態のまま進むことはなく、どこかで主流、非主流を作り(庶民自らが)、ある種、意見がコントロールされてしまう。ちなみに庶民においては大体、主流は立場の弱い側で、非主流は権力を持った側だ。意見の妥当性で分かれることはあまりない。

 例えば安保法案の件で言えば、庶民においては、国会の多数派に押し切られてしまうであろう、立場の弱い反対派が主流となり、その逆の賛成派が非主流となる。

 日本で、この主流、非主流の構図が出来ると、意見の妥当性とは関係なく、主流側の意見を選んだ人は、批判されなくて済む、という安全が得られ、非主流側の意見を選んだ人は、安全策が用意されているのに、あえて選ばなかったのだから、批判されて当然という位置づけになる。

 こうしたことから、庶民が意見表明をする際は、この雰囲気を察知して、主流の方を選んでおこう、となってくることが多い気がする。実際、今回の安保法案の件では、芸能人も意見表明をしたということが話題になったが、ほんの一部の例外を除いて、皆判で押したように、反対の意見ばかりだった。もちろん、心から反対しているのだな、という人もいたが、多くは、やはり批判されなくて済むという安全策で、反対と言っているだけなのではと思えた(勝手な推測だが)。

 テレビニュースの伝え方も歯切れが悪かった。国会前のデモの様子を映して、こうした声は議員の皆さんには届いているのでしょうか、みたいな伝え方が多かった気がするが、これも庶民の主流を意識した結果ではないかと思う。

 その伝え方は、正面から議員を批判しているわけではないから、報道の中立は一応守られていると言えるのかもしれない。でも例えば、起こり得る危機を挙げて、反対派の人たちはこうしたことを考えているのでしょうか、といった報道は一度もなかった気がするから、結局は、反対派よりの報道が多かったとも言える。言いかえれば、マスコミも、庶民の主流を意識した報道をしたことになる。

 日本は一応、民主主義国家だ。言論の自由も保証されている。でも未だにその行使の仕方が未熟だ。非主流を作って叩くことに躍起になるのではなく、対等な立場で意見をぶつけ合わせるのが普通になる日が、早く来てほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月31日 (土)

日本人は冷たい

 イスラム国により、二人の日本人が人質にとられ、うち一人が殺害されてしまったようだ。非常に残念だし、卑劣な犯行には憤りを覚える。そしていよいよ日本も、世界的なテロが他人事では済まなくなったなという感じがしてくる。

 一方でこの事件を機にまた、日本の不思議な というよりどこか怖い国民性を垣間見た気がする。特に殺害された湯川さんの父親のテレビ報道を見て、そう思った。父親は、残念な気持ちでいっぱいだということと、国民、政府、そして息子を心配して現地に入ったがゆえに拘束されてしまったのではないか、という後藤さんに対する謝罪を述べていたのだが、感情をむき出しにするわけでもなく、激しい言葉を使うわけでもなく、実に落ち着いたトーンだった。事の重大さを忘れてしまうほどに。

 でもよく考えると、この落ち着きはおかしい。子供が殺されているわけだから、親としてはとても平常心ではいられないはずで、感情をむき出しにして、怒りの言葉の一つもぶつけたくなるのが自然ではないか。ではなぜそうしなかったのだろうか。それは恐らく、日本の無慈悲な自己責任論を意識した(というより意識せざるを得なかった)からではないかと思える。もう一人の人質の後藤さんの母親も、自分は母親だからこの状況には耐えられないということを、その言葉の内容とはあまりにもかけ離れた、落ち着いたトーンで言っていたが、やはり自己責任論を意識せざるを得なかったのだろう。

 何か不祥事や事件が起こったら、直接に迷惑をかけていなくても、国民全員に謝罪しなければならない(しかも被害者であっても!)という、日本独特の空気と相まって、無慈悲な自己責任論も、時代が進むにつれてますますエスカレートしている気がする。東日本大震災の時も、原発事故で避難を余儀なくされた人に対して、自ら原発を誘致したのだから自業自得だ、などという意見が出て、もはやここまで言うようになったのかと衝撃を受けたが、この自己責任論はついに、息子が殺されるという、親にとっては気も狂わんばかりの事態でも、容赦なくのしかかるまでになってしまった。

 それにしても、なぜ日本人は、声高に無慈悲な自己責任論を叫ぶのだろうか。今回の事件にしても、自己責任論を主張するほとんどの人は、直接的に迷惑をかけられたわけではないはずだし、救出といった実際の作業を求められたわけでもないはずだし、救出に向けた交渉等で、税金が使われているかもしれないにしても、個人的に税金を追加徴収されたわけでもないはずだ。だったら、何もあえて突き放すことはせずに、助けようという気持ちくらい持ってもよさそうなものなのだが・・・、何がそんなに気に入らないのだろう。

 もっとも、こうした自己責任論は、主にネット上で見られる、あくまでも一部の人の意見ということかもしれない。実際私の知り合いを含め、身近なところからはそうした声は聞こえてこない。でも世間で、積極的に自己責任論を打ち消すような声も、あまり聞こえてこず、この自己責任論は、自らのせいでなくても何か面倒なことが起こったら見放されるという、今の日本全体に流れる空気と一致している気がする。

 日本は昔から画一的な社会だと言われてきたが、近年は個性や自由が奨励されている。でもなぜか日本人は、個性や自由を発揮するために使えるエネルギーを、画一性からはみ出した者の監視と非難に費やしてきたように思える。そんなことに汲々としているうちに、命がかかっている状況でも、日本は、平然と自己責任論で片づけてしまうメンタリティになってしまった。豊かな国のはずなのに・・・残念だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ 追記
 この記事を投稿した翌日(2/1)、もう一人の人質の後藤さんも殺害された模様だ。さらなる蛮行に憤るとともに、後藤さん本人の無念さや、親族の方の悲しみを思うと、本当に気の毒だ。

 ただ同じく残念に思ったのが、親族の方による、国民に対する謝罪だ。身内が殺されるという、悲しみのどん底にあっても、日本では、とにかく世間を騒がせたということで、国民に謝罪をしなければならないのだ。改めてこの不文律は、本当に容赦なくのしかかるのだなと思い、悲しくなった。

 そしてその後、後藤さんには、外務省が現地への渡航自粛を要請していたとの報道があった。これによって、自己責任の論調がより強まった感もあるが、それでも私は、簡単に自己責任では片づけられないと思う。ただそれよりも、渡航自粛要請を聞き入れなかったのだから、死んでもやむなしと見捨てたり、テロリストよりも悪者なのか、と思いたくなるような勢いで非難する日本の冷たさに、ショックを受けてしまう。

 被害者(加害者ではない)の親族を、マスコミの前に引きずり出し、謝罪をさせる(事実上、日本国民がそうさせている)だけでも、ひどいと思うのに、さらに自己責任論のバッシングを浴びせるのは、あまりにも非情ではないか。一番悪いのはテロリストなのに・・・

 日本も世界的なテロと対峙しなければならなくなったようだが、そのために第一に日本がやるべきことは、同胞を見捨てない精神性を持つことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月30日 (水)

日本の劣化

 日本が劣化したと言われて久しい。それは、モラルやプロ意識の低下について言うことが多いが、問題の処理の仕方の劣化もある。不祥事やスキャンダルの後、当事者が表面上謝罪はしながらも、責任逃れの発言に終始する記者会見などが、典型例だ。

 中でも最悪の例だと思うのが、事が起こって状況が厳しくなると、責任者が一旦雲隠れし、事の重大さによっては体調不良を装って入院し、時間をかけて完全なる理論武装をした後、弁護士とともに現れ、真相の説明よりも、法的には問題がないということを延々と訴える、といったことだ。

 そしてその最悪なことがついに、科学の世界でも起こってしまった。そう、あのSTAP細胞の小保方氏の会見だ。真理を探究する科学者が、自らの研究成果ではなく、法律論であれこれ弁明する姿には、憤りを通り越して哀れさを感じた。自ら科学者失格だと言っているようなものだ。

 そもそも、論文がねつ造かどうかということに、話の中心が持っていかれてしまっているが、もはや、ねつ造でもねつ造でなくてもよいから、とにかく論文で発表したSTAP細胞を見せてほしい。200回も作成に成功しているSTAP細胞を、小保方氏以外、なぜ誰も再現できないのか、そこを明らかにしてほしい。

 この件をもって、科学会全体の劣化と言うのは行き過ぎなのかもしれない。何が事実で何が仮説かを正しく見極められなかった、未熟な一科学者による単なるフライングだったと言う方が適切なのかもしれない。だから法律論などに持ち込まず、初めに潔く謝ってしまえば、こんな大事にはならなかったのにとも思う。

 ただ、理化学研究所ほどの権威ある機関の研究者が、ネイチャーほどの権威ある科学誌に提出した論文で、そうした稚拙なことをしてしまったこと、そして世界中で真偽が疑われ、ひいては日本の科学会全体の信頼も損ねたことを考えると、もはや個人の問題では済ませられないだろうか。

 一方、今回の件で驚いたことの一つが、一般の国民に、小保方氏を擁護する声が多いことだ。か弱い女性が一人必死で、理研という大きな権力に立ち向かっているという図式にも見えるので(弁護士の思惑通りか)、心情的には小保方氏を擁護したい気持ちになってしまうのはわかる。

 でも200回も成功し、そして世界的に権威のある科学誌に発表したことが、当人以外世界の誰一人として再現できないというのは、一般の人にとっても、おかしいことは分かるはずだ。科学的な知識がなくとも、発言の合理性のなさには気づくはずだ。

 日本の一般国民は得てして、何か事が起こった場合、とりあえず上(権力のある側)を叩いておけばよいという、安易な発想があるような気がする。今回の件でも、きちんと考えることなく、いつもの習慣で、悪いのは上(この場合理研)だと決めつけ、上述のような単純な不合理ささえ見抜けなくなってしまったとしたら、それこそ一般国民の劣化の表れだ。

 国民の世論を気にしてか、教育評論家や政治家の一部からも、小保方氏擁護の声が上がっているが、私的にはがっかりだ。再現できない実験結果を世界中に発表することは、教育的にもよろしくないし、国としての信頼も損ねたのだから、そうした人たちはむしろ非難すべきではないのか。非難までは忍びないというにしても、きちんと戒めるべきではないのか。厳しくあるべき人が、人気取りで、なあなあな態度をとる。これも劣化の典型例だ。

 ちなみに、このブログ記事を書く少し前に、小保方氏の疑惑を調査する委員会の長である石井氏、そして驚くことに、昨年ノーベル賞を受賞したあの山中教授についても、論文の画像に疑義があるとの報道があった。昔の論文の欠陥を探している人がいたことに驚くが、小保方氏の弁護士にとっては、願ったりのことかもしれない。

 ただ、画像の疑義という点では、両氏と小保方氏は同じということになってしまうのかもしれないが、決定的に違うのは、小保方氏と違って、石井、山中両氏の論文の内容自体は、正しいと証明されていることだ。ここを無視して、揚げ足取りのような行動で、科学者が研究する環境を乱してよいものだろうか。

 そもそも今回の件は科学の問題だ。なのでいずれは、国民世論も感情論から、真実を踏まえたものへと変わり、事態は落ち着くべきところに落ち着くものと思うが、この一連のドタバタ劇は何とも残念だ。無用な混乱を避けるために、一般国民も上ばかり責めていないで、もっと賢くならなければ、と強く思った今回の出来事だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月25日 (土)

オリンピックに見た、変わったこと、変わっていないこと

 ロンドンオリンピックが終わった。今風の言い方をすれば、私も多くの感動をもらった。

 今回の日本選手・チームで、私が注目していたのはサッカーだが、中でも特に印象に残っているのは、男子の初戦・対スペイン戦だ。前回の2010年のワールドカップ優勝国、FIFAランキング1位のスペインに、日本が勝ったのだ。

 この勝ったということ自体も素晴らしいが、それ以上に、戦いぶりや、コメントが立派だった。選手たちは、強敵スペインに対しても、あわよくば勝ちを狙うとか、何とか引き分けに、という意識ではなく、本気で勝ちにいっていた。それは試合の堂々とした戦いぶりや、選手たちの自信あふれるコメントにも表れていた。本気で勝つつもりで戦うなど当たり前だし、そう思って応援するのも当たり前ではないか、と言われればそうなのだが、これが意外と難しかったりするのだ。

 そもそも今でこそ、日本がサッカーの国際試合に出るのは普通のことになっているが、連続してオリンピックに出るようになったのは1996年のアトランタ(その前は1968年のメキシコ大会)から。ワールドカップに至っては1998のフランス大会で初出場。特に98年のワールドカップに初出場するまでの、長い苦難の道のりを知っている我々の世代(40代後半)にとっては、国際試合には、出るだけである意味満足、ヨーロッパの強豪には、勝敗はともかく、恥ずかしくない戦いをしてくれればそれでよし、といった感覚がある。

 今回のスペイン戦も、私はそのような感覚で見ていた。だからその分、選手たちの、本気で勝ちにいっていた戦いぶりと、それを示すコメントに感銘を受けた。でも思えば、日本がワールドカップに初出場してからもう14年、選手たちの意識も変わって当然だし、こちらの意識も当然変わらなければならない。本気で勝ちにいっていた若者をスペイン戦で見て、そのことを強く思い知らされた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もう一つ印象に残った、と言うより気になったことは、日本人メダリストのほぼ全員が言っていたと思われる、「メダルが取れたのはみんなのおかげ」というコメント。これは日本特有の謙虚さを表すよいコメントだと思うし、選手の皆さんも、基本的には本心からそう言っていたように感じる。でも、ここまで全員が、ここまで開口一番に、ここまで抜かりなく言うと、どこか違和感がある。選手個人の気持ちとは別の何かが、そう言わせている気がしてならない。

 以前から日本には、優れた業績をあげた人も謙虚であるべきだという考えがある。そしておなじみの横並び意識もある。だから元々日本人は、オリンピックでメダルを取った時などでも、謙虚な発言をしがちだった。それが近年のインターネットの発達によって、より強化された。従来のマスコミに加え、一般の多くの人たちも、世の中のことにある程度影響力を持つ形で意見を発信できるようになり、皆で監視役を務めて、謙虚な発言をすべしという空気を生み出したのだ。

 でも、昨年9月にも同様のことを言ったことがあるが、オリンピックのメダリストにさえ、型にはまった謙虚さを半ば強制するような日本の状況は、どこか息苦しくないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上、ロンドンオリンピックを見て、変わったなと思ったこと、変わってないなと思ったこと、の2点を述べてみた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月21日 (水)

リーダー、ヒーローが要らない日本人

 数年前から、日本では総理大臣が頻繁に変わっている。原因のほとんどは、その人の能力や資質によるものだと思うが(特に政権交代以降は顕著)、一方でマスコミが、ほんのちょっとした失言でも責め立て、それに国民も同調するという事がなくならなければ、事態は変わらないと思う。このままでは、誰が総理大臣になっても同じ、あるいは、もはや誰も総理大臣など出来ないのではないか。

 もっとも総理大臣に限らず、その他の大臣、自治体の長、官僚のトップ、会社の社長など、リーダーに対して、今の日本人は異様に厳しいし、リーダーそのものに、嫌悪感があるのではないかとさえ思える。皆と同じでいたい、皆と同じであるべきだ、という日本人独特の横並び意識により、リーダーという存在さえ、異質なものと捉え、隙あらば叩く、という気持ちになるのだろうか。

 自分が学生だった頃は、教育も世の中も結構画一的だった。それに比べれば、今は自由で、個性も発揮しやすいはず。実際、ゆとり教育で個性重視が謳われているし、世の中的にも、変化の激しい現代は、独創的な思考が必要だということで、やはり個性が重視されている。このような環境なのに、日本人は、享受できる自由を、そして発揮できる個性を、異質なものを監視することに使ってしまっているようだ(しかもインターネット等の発展で、年々強化されている感がある)。何とももったいないことだ。

 日本人の横並び意識は、この前の震災時に海外から称賛された、規律や協調性、治安のよさなどの、プラスの面も生み出すが、行き過ぎて、ちょっとの違いも叩かれるという雰囲気は、何とも息苦しい。いずれにしても、リーダーというものは必要なのだ。非難すべき点は非難すべきだが、リーダーの存在さえ否定したいかのような、些細な事での揚げ足取りはやめたいものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の話に関連して、思い出すことがある。ちょっと古いが、今年1月に行われた、サッカー・アジア杯決勝戦のことだ。(一体何の関連が、と思われるかもしれないが)

 それは、対オーストラリア戦だったが、非常に緊迫した見応えのある試合で、0対0のまま、延長戦後半に入った。そこで、李忠成という選手が、素晴らしいボレーシュートを決め、結局1対0で日本が優勝した。試合後のインタビューで、李選手は「自分がヒーローになると言い聞かせていた」という発言をしていたのだが、この発言が、ネットで結構叩かれていたというのだ。なぜ自分のことだけ言うのか、なぜ皆のおかげで勝てたといったことを言わないのかと。

 このことを知って、私は驚いた。確かに自分も、李選手のインタビューを聞いた時、「日本人の一般的な発言とは違うな」と、一瞬思ったのは事実だ。(こう思ってしまうところが、どっぷり日本に浸かっている証拠?) でも、本当に見事なシュートを決め、まさにその1点のみで勝てた試合なのだから、人間の素直な感情として、俺がヒーローだという発言をしても、何の不思議もない。

 個人的には、皆のおかげです的な、謙虚な発言が好みなのだが、そんな私でも、この時は李選手に対して、確かに君がヒーローだよと思ったし、いつまでもヒーローと言い続けるのは、あまり感じがよくないが、試合直後くらい、ヒーロー感に浸らせてあげなよ、と思った。偉業を成し遂げた直後でさえ、ヒーローになることが許されない日本。何とも息苦しくないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 9日 (月)

震災とマスコミ

 この震災で色々なことを考えさせられたが、いつもより多くテレビを見ていたこともあって、マスコミのひどさが改めて気になった。
 もちろんマスコミの報道をきっかけに、支援が行き渡るようになったりと、役立つ報道があることは重々承知しているのだが、一部マスコミ関係者の態度や発言で気になることがあったし、特に現場の記者(カメラマンも?)の傍若無人ぶりは、目に余るものがあった。
 極めつきは、東京電力の計画停電を知らせる会見での「(停電で)死ねってのかよおい」発言だが、それ以外にも、なぜそこまで心ないことが言えるんだ、なぜそこまで無礼なんだ、という発言は多かった。
 確かに会見で発表する側も、おかしな事を言っているなと思える時はあったが、だからと言って、マスコミが暴言を浴びせていいことになはらない。テレビで震災関連の会見を何度も見ているうちに、もはや、多少おかしな事を言っていても、発表者側に同情するようになってしまったくらいだ。

 この震災に限らず、何か事件や事故があると、記者達が当事者を取り囲み、正義の味方よろしく、「被害者に謝罪しないんですか?」などと詰め寄る場面をよく目にする。確かに「そうだ」とは思うのだが、あの攻撃性が前面に出たトーンで言われると、共感したくなくなってしまう。
 以前から、記者の人達に対してよく思うのは、あなた達に裁きまで託した覚えはないということ。本来マスコミの人達は、伝えることが仕事のはず。被害者に謝罪しない人がいたとしても、そういう人がいるという事実を伝えるだけでよいのではないか。あるいは、どうしても言いたい事があるのなら、画面にきちんと映った上で言うべきだ。暴言を浴びる側は画面に映るのに、暴言を吐く側が映らないのはアンフェアだ。

 以前ある著名人が、マスコミは、国民の精神レベルと離れた所には存在できない、と言っていた。もっともな話だと思う。ということは、マスコミ(記者)の体たらく、イコール、国民の体たらく、となるのだが、この震災を機に、国民の方が一歩先に進んだのではないかと思える。さらに言えば、一歩先に進んだ国民が、マスコミを修正したような感じさえする。当初民放が、震災を興味本位で伝えていると批判されたりしたが(私もそう思った)、時が経つにつれ、そうした報道が消えてきたのは、その実例ではないだろうか。
 この震災をきっかけに、社会の色々な事が変わるだろうと言われている。マスコミも変わってくれればなと、切に願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月18日 (月)

貧者の兵器とロボット兵器

 NHKで、貧者の兵器とロボット兵器という番組を見た。

 ハイテクのロボット兵器を使うアメリカと、自爆テロで生身の人さえ兵器として使う、アフガニスタンのテロ組織との、戦い方のギャップが描かれていた。

 それによれば、もはやアメリカ人は、自国の安全な場所にいて、地球の裏側のロボット兵器を操作して、敵を殺せるということだった。衝撃的な内容なのだが、私が最も気になったのは、アメリカ人兵士の顔に、自分は何でもできるという、万能感が漂っているように見えたこと。実際、かわいらしい若い女性兵士が、自分は高いところが怖いけど、ロボットの飛行機なら、自分は安全が保障されていて完璧、と笑顔で答えていたことには、凍りつくほどの戦慄を覚えた。

 若い女性兵士の笑顔に象徴されるような、ロボット兵器による、人を殺すことへの抵抗感の喪失、悲惨な現実への無関心、そして、その気になれば何でもできると思わせかねないほどの、アメリカのあまりの軍事力の強さ。テロを食い止めなければならないアメリカの立場はよくわかるが、この番組を見て、それとは次元の違う恐ろしさが胸に迫ってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

その他 | 教育 | 日々の授業 | 社会