日々の授業

2015年4月30日 (木)

今の生徒は真面目だが・・・

 私は、かれこれ30年ほど教える仕事をしている。これだけ教えていると、昔と比べ、やはり生徒の気質は変わってきたなあ、とつくづく感じる。変わった点は色々あるのだが、最近特に感じるのは、生徒が真面目になったということだ。

 真面目なのは本来よいことなのだが、やはり何事もバランスが大切で、行き過ぎると、あるいは方向性を間違えると、問題が生じてくる。最近は特に、言われたことをこなす、決まりは守る、ということばかりを優先して、肝心の出来や成果、そして自分の感覚さえもが二の次になっている、という事例が増えてきた気がする。

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 例えば、こんな例があった。

 ある生徒は、毎週単語を100個ずつ覚え、それをテストをしているのだが、毎回微妙な出来だった。さらには前の週に覚えたはずの単語をチェックすると、既にかなりの部分忘れている。何よりも、毎回のテストがつらそうで(実際唸り声を上げながら(!?)行なうこともあった)、週100個というペースが、その生徒には合っていないのではないかと思われた。

 そのことを生徒に指摘すると、ペースが遅くなるのが不安だ、そして何よりも、決めたことをやらないのはよくない気がする、とのことだった。でも、早いペースで進んでも、あまり覚えていないのなら、結局やり直すハメになって、効率が悪いのではないかと指摘すると、この点に考えを巡らせたことはないようで、そもそも私の指摘がピンと来ていないようだった。

 そもそも週100個というペースは、学校がそのような進度だったので、とりあえずそれに合わせてみようか、ということで始めただけで、そのペースでなくてもよかったのだ。実際この生徒の場合、週あたりの個数をもっと減らしても、入試までには必要な単語が網羅できた。

 だから本来なら、せっかくの個人指導なのだし、本来やるべき量・ペース、自分にとってしっくりくる量・ペース、目標のレベル、現実の自分の出来、などを総合的に考え合わせて、最も効果的だと思われるやり方で進むのが、重要なはずなのだ。でもこの生徒は、そうした実効性には考えが及ばず、とにかく決めたことをやる、ということにだけ力を注いでいたのだ。

 ちなみに学校の場合は、自分だけペースを変えることは、もちろん出来ないが、それでも自分の感覚に基づいて、理解が怪しいところは後でやり直したり、全てを完璧にこなすのが難しいのなら、さしあたりの優先事項を選び出し、それを確実に定着させるようにするなど、自分なりの対策はとるべきだ。

 また、こんな例もあった。

 ある高3生が持っていた長文問題集が気になり、それは何かと尋ねると、昨年(高2時)学校の授業で使っていた教材だと言う。では、その教材で習ったことで何を覚えているか?と聞くと、何も覚えていないとの答。そもそもこの教材は昨年のもので、今は使っていないのだから、覚えているわけがないのでは、と言わんばかりに・・・ 答の内容も驚きだったが、何のためらいもなく即答したことも驚きだった。

 つまりこの生徒は、何も覚えていないことを問題視していないのだ。それどころか、言われたことはきちんとやっていた、という自負がある。授業の前に分からない単語は調べたし、設問も解いたし、授業では板書もきちんとしたし、復習も一応したし、学校から指示されたことはきちんとこなした、ということなのだ。

 せっかく勉強したのに、そんなに忘れているのでは、意味がないのではと指摘すると、生徒は、でも言われたことはきちんとやりましたよと、そここそが大事とばかりにアピールしてくる。それを聞いて再度私は、でも忘れていては意味がないのでは・・・と堂々巡りになっていく。

 もちろん長文問題集の隅から隅まで覚えている必要はない。また、覚えているものが言葉で明確に言えなくても、本人のみぞ知る何か感覚的なものが身についているのかもしれない。でも本来長文問題をこなしたら、その後は何度も音読して、頭にしみ込ませることが、実力をつけるためには必要だ。そうした作業を繰り返していれば、その長文をきっかけに覚えた単語や文法、どういう内容の長文があったか、印象深かった一節、内容把握に苦しんだ箇所、和訳に苦闘した部分など、何かしら記憶しているはずなのだ。

 そもそも学校では、この音読という重要な作業をするよう指示しなかったのかが気になるが、生徒によれば、言われたことはきちんとやったはずなので、その指示はなかったと思うとのことだ。ただこの学校の指導が全体を通して緻密なことを考えると、生徒を疑うようで悪いが、恐らく音読の指示はあったものと思われる。たまたまその指示だけ聞きそびれたか、その指示が曖昧なものだったのかもしれない。

 いずれにしてもこの生徒は、言われたことはやったというだけで満足し、長文問題を1つこなす毎に、自分がどう成長したかということを考えることがなかったのだ。

 さらには、こんな例も。

 ある生徒の学校では、長期休みの期間に、特別講習を行なうと言う。ただ、どの講座を受講するかは自由に決めてよいし、そもそも受講してもしなくてもよい、とのことだった。

 その生徒に、どの講座を取ることにしたのかと聞くと、それはそれはたくさんの講座を取っていて、しかも、今のレベルを考えたら難しすぎるのでは、という講座も多く含まれていた。

 現状を考えると、これまでに学校で習ったことも、復習不足で定着したとは言えないので、そんなに講座を取ったら、復習の時間がなくなってしまうのでは、そして私の授業の予習・復習の時間もなくなってしまうのでは、と指摘した。すると、そんなことは考えたこともなかったようで(そここそ考えるべきなのに・・・)、最初はポカンとした様子だったが、よく考えてもらったところ、確かに復習時間は必要だということは納得したようで、講座数は適量に抑えることにした。そして講座のレベルも、現状に合ったものに絞った。

 予習・復習の時間、つまり定着のための時間を無視して、とにかく講座をたくさん取れば、とにかく問題集をたくさんこなせば、出来るようになると思っているという、こうした過ちは、実は昔から見られるものだが、最近は、真面目にコツコツやるタイプでも、こうした過ちを犯す例が増えてきた気がする。

 いずれにしてもこの生徒は、自分の状況に関心を持たず、自分の状況とは無関係に事を進めていたことが問題だった。

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 上の3例の生徒とも、皆真面目に勉強している。だからこそ、真面目さの方向違いによって、勉強の効果が減るのは、何としても食い止めたいところだ。

 ちなみによい勉強法と言われるものも、ある生徒には合っていないかもしれないし、合ってはいても、それをするタイミングは今ではない、という場合もある。そうしたことが判断できるためには、当然自分の状況がきちんと把握できていなければならない。

 どうせ真面目にやるなら、そこを真面目にやってほしい。

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2014年11月30日 (日)

和訳は不要?

 昔、私が高校生だった1980年代や90年代は、学校の授業は受験には役立たないと言われていた。それが徐々に学校でも、受験を意識した授業を行なうようになってきた。学校教育的な是非はあるかもしれないが、受験生にとっては有難いことだろう。でも最近それが行き過ぎて、むしろ受験に逆効果なのではないかと思える例に出くわす。

 その端的な例は、和訳をしないことだ。現在ウチには、学校の読解の授業で、和訳をしていない(させられていない)という生徒(高1生、高2生)が複数いる。

 では読解の授業で何をしているのかと聞くと、音読や、文構造や内容的なポイントを、ごく簡単に口頭で解説するとのこと。和訳や新出単語の意味は、各授業後、場合によっては定期テストの前にまとめて、プリントとして配布されるらしい。

 さらに私としては、和訳をしないことが不思議なので、なぜ和訳をしないか、学校の先生は何か言っていたかと聞くと、分からないという生徒もいたが、早くから実戦を意識しているかららしい、という生徒もいた。入試では大量の英文を素早く読んで、主旨をつかまなければならず、じっくり和訳している時間はない。だから和訳しないでも理解できる力を早期から養う、ということのようだ。

 確かにそれはもっともな話で、私も最終的にはそうしたことを目指して、指導をしている。ただあくまでも、最終的に、そして臨機応変にということだ。もちろん受験学年の高3は、和訳なしの理解を特に重視する。が、それでも生徒の読み方が雑ならば、和訳の作業を増やして、読み方を修正したりもする。

 ましてや高1、高2では、アウトプット(既に持っている知識の運用)よりも、インプット(新しい知識の習得)の方を重視しなければならない。だからまずは本番を意識して、素早く英文を読んで主旨をつかむ練習をするにしても、その後は、きちんと和訳をさせ、知らなかった単語もリストアップして、暗記をしてもらう。

 そもそも学校の読解の教科書は、新しい課に入ると、結構な数の新出単語や、未習の文法事項を含む英文を読まなければならない。そうした英文に対して、和訳をしないで、素早く意味を取ろうとするのは非常に困難だし、勉強として効果的でない。本来そうした読み方を主目的とするなら、これまでに習った単語や文法で十分読めるはず、という教材で行なうべきだ。未知のことを多く含む英文に、さらっと読むような軽い接し方をするのでは、新しい知識も身についていかない。

 やはり、新出単語は自ら辞書などで調べ、さらには、辞書の表記通りではない、その英文に最適な訳語を、自ら頭をひねって考えたり、未習の文法事項も、参考書で調べ、自分なりの見当をつけるなどして、きちんと和訳をすべきだ。そして間違えていたところを授業で修正し、その後、せっかく身につけたことを忘れないために、そして、じっくり考えなければ分からなかったことが、今度は素早く分かるようになるために、何度も音読をするのだ。

 というように、単語調べ一つとっても、色々考えることがあり、意外と悪戦苦闘する。上述の学校の授業の例では、意味も載せた新出単語の一覧を配布してしまうとのことだが(和訳をしないことよりも、実はこのことの方が重大な問題)、これでは、貴重な悪戦苦闘の経験を奪ってしまい、苦労がない分、その後単語は記憶に残りにくくなる。そして、音読にしても、本来最も効果があるのは、自ら悪戦苦闘して意味をつかんだものを読む場合であって、しっかり解説がなされておらず、十分に理解しきれていない英文を音読しても、効果は薄いのだ。

 近年ますます、実戦で役立つ英語を身につけることが求められている。そうなると必ずやり玉にあがるのが和訳だ。実際に英語を使う場面では、素早く対処しなければならないのだから、和訳などしている暇はないとか、後からの修飾なども、前からどんどん理解できるようにならなければ、特にリスニングでついていけなくなる、などがその理由だ。

 確かにその通りだが、実戦力を目標とするにしても、そこに至る過程の勉強が、常に実戦的である必要はない。速読が求められるからと言って、常に速読にこだわった勉強だけをしていたら、読みが雑になり、対処できる英語のレベルが上がっていかない。だから、時には和訳などをしながら、じっくり読むことも必要だ。

 大体和訳というものは、訳すことだけが目的なのではない。和訳は緻密な作業だから、それを行なうことによって、今まで何となく分かっていたつもりのことも、実はよく分かっていなかったことに気づいたりする。そうした経験が、新たな学びのきっかけとなり、英語力を一歩高めていくのだ。

 もちろん、和訳しかしないとか、意味が分かった後でさえも、日本語の表現の工夫に過度にこだわる、といったことは問題だが、適切なタイミングで、適切な分量を行なえば、和訳は、実戦力をつけるための重要な作業となるだろう。

 受験においては、当然実戦力は必要だ。速読力もなければいけないし、設問の解法のコツも知っておくべきだろう。ただそれよりも前に、骨太の実力が必要だ。言いかえれば、実感として分かるという感覚、しっくりくる感覚がなければならない。そうした力を養うには、自ら単語を調べて、悪戦苦闘しながら和訳をする、という作業は非常に有益だと思う。何か英語がしっくりこないあなた、ぜひ和訳をしてみよう。

 ちなみに、昨年(2013年)の高1生から、英語という科目名が、コミュニケーション英語という名に変わった。その名の通り、コミュニケーション能力を養う(読解力だけでなく、意見を発信する力も養う)ことを目指すようだが、教科書を見る限り、読解を中心に行なうと考えてよいのだろう。

 そうした変化もあって、もしや新しい学習指導要領に、和訳はさせないように、とでも書いてあるのかと思い、確認してみると、「訳読や和文英訳、文法指導が中心とならないよう留意し」とはあったが、禁止という文言は見当たらなかった。見方を変えれば、訳読が中心でなければ、和訳をしてもよいと解釈できる。これは、遠回しな言い方でお墨付きをもらったのだと判断し、今後も私は、適切な形での和訳指導を続けたいと思う。

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2014年8月31日 (日)

求めないものは手に入らない

 受験の天王山と言われる夏休みも終わりを迎えるが、受験生の皆さんは、うまく勉強を進められただろうか。その夏休みは、実戦的な勉強も意識すべき時だが、英語の受験勉強において、多くの受験生にとって、最後にして最大の山場となるのが、「速読力」の養成ではないだろうか。

 こつこつ勉強を続けて、必要な単語や熟語、文法を覚え、文脈の追い方などの読解法を習得すると、長文は読めるようになるが、さしあたりは、ゆっくりなら読めるが、という条件がつくことがほとんどだ。それでも結構な偉業達成なのだが、入試を突破するためには、長文を「速く」読めるようになる、という仕事が待っている。

 得てして低学年のうちは、リーディングの教科書を、辞書などで調べながらきちんと訳すというように、時間はあまり気にせず、とにかく精度を高める、という勉強が重視されがちだ。もちろんこうした作業を通して、まずは英語の実力の下地ができるので、これはこれで重要だ。でも如何せん、入試は解く時間が限られている。当然「速く」問題がこなせなければならない。なので「速さ」に主眼を置いた勉強も必要になる・・・精度を犠牲にしてさえも。

 ウチの授業でも、遅くとも高3の夏には、こうした「速さ」を意識した勉強を行なってもらうが、今年はなぜか、これに抵抗感を示す生徒が多い。

 「速く」読むには、細かい箇所にはこだわらずに、大体の主旨をつかみながら読み進めたり、わからない箇所は推測をしたり、とりあえず飛ばして読んでみたりといった、読解の精度を下げざるを得ない作業も必要になる。こうした作業が、それまでに行なってきたリーディングの勉強法・・・どの文もきちんと訳す、そしてきちんと訳してから次の文に進むといった勉強・・・に反するため、何か気持ちが悪くて抵抗感があったり、そんないい加減なことをしてよいのかと、罪悪感さえ持ったりするらしいのだ。

 こうした感覚は自然なものだが、最近は実は真面目な生徒が増えているので、より抵抗感が強まっているのかもしれない。その真面目さゆえか、これまでのじっくり型の勉強で何とかならないかと、食い下がる生徒もいたりする。もちろんそうした勉強は必要だ。それは受験が近づいても変わらない。でも、ゆっくりの勉強だけでは、どんなに磨きをかけても、ゆっくりからは脱せられない。少しは速くなるかもしれないが、画期的な変化はない。やはり、根本的に主眼を置くところを変えることが必要だ。「速く」を意識しないのに、自然に「速く」読めるようにはならない。求めないものは手に入らないのだ。

 当然のことだが、通常大学入試で全てがわかるということはない。どんなに勉強をしても、わからない単語には出くわすし、どこかしら内容がつかめない箇所にも出くわすものだ。ましてや第一志望の入試は、余裕を持って解けるなどということはないはずで、あれこれ手を尽くしてギリギリ合格点に達する、という感じではないだろうか。だから、知識を身につけたことで満足してしまっては、勉強としては不十分で、持っている知識を最大限に生かして、しかも限られた時間で最高のパフォーマンスを発揮できるようにするという、知識の習得とは次元の違う勉強も必要だ。

 真面目に勉強するのは、全くもってよいことだが、その真面目さが徒とならないよう、必要ないい加減さも、真面目に取り入れよう。

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2014年5月31日 (土)

普通がイチバン

 今の日本、何においても、他との差別化が必要なのか、変わったものがもてはやされる。なのでちょっとあまのじゃくな(!?)私は、逆に「普通」をウリにしようと思っている。と言うより、世間の風潮とは関係なく、当初から、奇をてらわず正攻法で(つまり普通のやり方で)やっていたというのが実情なのだが。

 英語の勉強法においても、何か画期的なものがあると期待したくなるかもしれないが、やはりそれはないと思う。大体そんないいものがあるなら、すでにもっと世に定着しているはずだし、学校でも導入されているはずだ。自分の経験でも、特別画期的な勉強法はないと言える。むしろ邪念を捨て、普通の勉強に徹することが、英語力を高める一番の近道だ。

 あるテレビ番組で聞いた、「誰でもできることを、誰にもできないくらいやる」という言葉が頭に焼きついている。素晴らしい言葉だと思うが、成功の秘訣はまさにこうしたことで、特別なことをやるという訳ではないのだ。

 ただ「普通」というものは、真理をついている代わりに、初めて学ぶ者にはとっつきにくかったり、ひたすら普通を押し通すだけでは単調だったりするので、その人に応じた例を挙げながら説明をしたり、項目を絞って説明をしたり、時には本題を離れて、面白さや刺激を優先させて事を進めたりもする。でもそれらは、あくまでも普通を貫くための方便。王道から逸れないように注意を払う。

 上述のように、今は何かと差別化が求められる。塾とて例外ではなく、他塾と比べて、あるいは他教師と比べて、際立った個性をアピールしなければならないようだ。それならば私は、普通さをアピールする。私は1人でやっており、組織の意向や他教師の動向を意識しないでよいので、堂々と普通を主張できる。

 唯一、普通を求める生徒が誰もいなくなってしまったら、考え直さざるを得ないのだが、そうなったらそうなったで、その時に考えよう。いや、そうならないように、「普通」のよさを、少しでも多くの生徒に伝えるよう頑張ろう。

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2014年3月30日 (日)

個人指導のジレンマ

 今さらの話だが、個人指導(家庭教師)のような1対1の指導のメリットは、生徒個人の特徴、レベルに合わせた指導ができるということだ。でもこのことは、デメリットにもなる。生徒に合わせることを意識しすぎると、本来目標とするレベルになかなか高まっていかないからだ。

 より生徒側に合わせれば、つまり、その時の生徒のレベルに合わせて問題を選択したり、生徒がつらいと思わないような分量に抑えたりすれば、そう無理をしないでも対処できるから、生徒は気分よく勉強ができるかもしれない。でもこれだと、目標に向かって学力が高まる、ということにはつながりにくい。

 一方で、より教師側に合わせれば、目標とするレベルから逆算して、今何をすべきかを考えて指導を行なうので、得てして、レベルも分量も、生徒が思っているものを上回ることが多く、つらい勉強となってしまうかもしれない。でもこの勉強についてきてくれるのであれば、学力は高まる。

 ということで、個人指導を行なっていると、生徒寄りで指導すべきか、教師寄りで指導すべきかで、ジレンマに陥るが、要は、そのバランスがとれた指導が、良い指導ということになるのだろう。でも、これがなかなか難しい。

 私の場合は、せっかく指導を受けてもらうのだからきちんと成果を出したい、という思いがふつふつと湧いてくるので ――― 別に恰好をつけているわけではなく、これは私の本能のような気がしている。そしてこの本能ゆえに、私はこの仕事に落ち着いたのだとも思っている。―――、教師寄りで指導を進めたいという気持ちが強い。なので、生徒にとっては大変なことも間々あると思う。

 でも教師寄りに指導すると言っても、有無を言わさず、こちらがやりたいことをやるというわけでは、もちろんない。目標とするレベルはこのくらいで、今の生徒の状況はこうで、だから目標に達するには、このくらいのペースで進まなければならない、といったことをきちんと話し、生徒に納得をしてもらった上で、指導を行なう。

 もちろん、理想ばかりを語っていても、当の生徒がやる気をなくしてしまったり、教師と生徒の信頼関係が壊れてしまっては、元も子もないので、その点には注意を払う。でもとにかく、生徒が楽だと思うレベル(難易度にしても分量にしても)でとどまらせてしまうことなく、少なくともその少し上のレベルのことは行なわせたい。本来進むべきペースではつらすぎるにしても、まずは半分の量から始めてみないかと提案するなど、何かしらの手は打って、少しでも上昇に向かわせたい。目標を達成したいなら、そして力を高めたいなら、やはりそうしたことは必要なので。

 究極の指導は、生徒が特につらいとは思わず、でもやるべき必要なことはやらせている、といったものなのだろう。その域に達するのはなかなか難しいと思うが、そこを目指して努力はしていきたい。そしてその域に至るまでは、ジレンマに悩みながらも、場合によっては反発を受けながらも、とにかく成果を出すということに主眼を置いて、指導をしていきたい。

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2013年7月31日 (水)

単語は自分でできる?

 夏休みとなり、入会希望者の体験授業も増えてきた。体験授業では、こちらの授業のやり方を示すとともに、色々と話を聞いたり、テストの点などのデータ類を見たりして、生徒の現状を分析し、今後の授業の方針、自らの勉強の仕方の注意点などを提示している。

 そこで私が言うことが多いパターンは、「一番のポイントは単語の暗記だ。とにかく単語の暗記を徹底してやらなければならない。」というもの。それに対し、「ポイントが単語なら、自分でできる。」と言って、入会しない生徒が少なからずいる。果たして本当に、単語は自分でできるのだろうか?

 もちろん一般論としては、単語は自分でできて何の不思議もないし、本来は自分でやるべきだ。でも、英語に困って、英語110番の門を叩くに至ったような状況の人はにとっては、単語が自分でできるか(もしくは単語を本当にやろうとしているのか)は正直言って疑わしい。そもそも、本当の意味で単語を自分で勉強できるためには、次のことが必要だ。

 1、継続的にやる気が維持できる
 2、自分の状況が正確に把握できる
 3、暗記の方法がわかる
 4、何を覚えたらよいかがわかる

 1について・・・最も重要なポイントで、技術論では解決できないやっかいなものだが、ともかくこのやる気がなければ始まらない。しかも継続的なやる気がなければ、暗記の作業は続かず、一時は覚えたにしても、結局忘れてしまい、なかなか単語は定着しない。

 2について・・・ここで特に大事なのが、単語を練習した結果、それで自分が覚えたのか、まだ覚えていないのか、判断ができるということだ。本来これはチェックすれば簡単にわかるのだが、勉強しているということ自体に満足してしまい、成果には意外と無頓着だったり、恐らく覚えているだろうという、希望的観測のみで判断を下したりと、上手くいっていない例が多いように思う。ちなみにこの判断ができないと、先に進むべきか、もう少しとどまって練習を重ねるべきか、あるいはそろそろ以前の復習をすべきか、といった判断も誤ってしまい、ここでもうひと押し練習すれば忘れなかったのに、それをせず結局忘れてしまったという、もったいないことが起こりがちだ。

 3について・・・労をかけずして覚えられるといった、夢のような暗記法は残念ながらない。暗記をするには、やはり一定の労力をかけることが必要だ。ただせっかく労力をかけるのなら、それを無駄にしないよう、次の点に注意したい。まずはよく言われることだが、五感を使うこと、具体的には、発音を聞き、自らも声に出して発音し、手を使って書く、ということが重要だ。脳に多種類の刺激を送ることが、記憶の定着を促進するのだ。単語暗記が苦手な人は、ただ単語集を眺めているだけというパターンが多いが、これではやはり刺激が少ない。もちろん反復作業も重要だ。一度練習したくらいでは忘れるのが普通なのだから。その際、どのくらいの頻度で、どの程度反復するかもポイントとなるが、その判断には、2で述べたように、自分の状況が正確に把握できることが必要になる。

 4について・・・大学受験が目標ならば、それに即した単語集を使うことが、何を覚えたらよいかを最も簡単に把握する方法だろう。ただ一口に単語集といっても、上級向け、初級向けとあり、生徒の今のレベルや、目標とするレベルによって、適切な選択が求められる。また、どの意味を覚えるかも重要だ。私は受験向けた単語暗記に際しては、基本的に、受験によく出る「1つ」の意味(大体単語集では、それは赤字で示されている)を「確実に」覚えることがポイントだと思っている。あれもこれも覚えようとすると、結局どれも頭に残らないことが多いからだ。ただ中には、2つ(またはそれ以上)の意味を覚えなければならないものもある。例えば appearは「現れる」と「~に見える」の2つを覚えなければならない。中学基本語だが、中学では習わない意味を覚えることも重要だ。例えば thenは「その時」「それから」だけでなく、「それなら」も覚えるのが必須だ。こうしたことを認識していないと、その単語を知らないわけではないが、必要な意味が覚えられていなかった、ということになってしまう。何を覚えたらよいかは、実は奥が深く、重要なポイントなのだ。

 以上のことを踏まえてもなお、もちろんそんなことはわかっているし、実践もしているというのなら問題はない。本当に単語は自分でできるだろう。でもそうでないのなら、英語110番の指導を受けていただくか、またはコーチ役になってくれる人を見つけ、以上のことを的確に指導してもらう必要があると思う。

 ちなみに生徒や保護者の方、さらには同業者からも、単語を教えると言っても一体何をやるのか、と問われることがあるが、それは以上のようなことにきちんと対処をするということだ。すなわち、生徒にやる気を出させ、かつそれを維持させ、生徒の現状や目標を把握して、それに基づいて何を覚えたらよいかを的確に指摘し、正しい暗記の方法を実行させ、どのくらい覚えたかを指摘し、適宜反復もさせ、必要な単語を確実に定着させる、そしてそれらの作業が自ら自然に行なえるようにする、ということだ。

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2013年6月30日 (日)

従来の教材が使えない?

 恐らく、私は頑固な方なのだろう。そもそも、自らの思いを貫くために、独立して一人で教えているくらいなのだから(3月の記事参照)。でも、やみくもに頑固な訳ではなく、状況には柔軟に対応しているつもりだ。その一つの表れとして、従来よく使っていた教材が、あまり使われなくなったということがある。時代の移り変わりとともに、学ぶべきことの中心が変わったり、入試問題の質が変わったりして、それらに対応した結果だ。

 例えば「精読」という教材がある。本格的な長文問題を行う前の下準備として、数行の英文をじっくり訳すというもので、オリジナルでも作成している(→見本)。従来精読の教材は、習った文法事項を長文読解にどう適用するかを学ぶことが中心だったが、こうした教材の出番がだんだん少なくなってきた。それはやはり、入試の質が変わって、文法や構造が複雑で難解な英文を読み解く必要性が減り、一文の難解さはそれほどでなくても、より長く情報量の多い文章から、主旨や重要なポイントがつかめたかを問うことが増えてきたからだ。

 そこで問われるのは、難解な英文を読み解く能力というより、論旨の展開をきちんと追いながら、筆者の言いたいことを確実につかむ力だ。こうした力を育成するのに、やはり従来の教材では対応しきれず、新しい教材を作成した(→見本)。文法の適用というよりも、主旨をつかむには、何に注意して読んだらよいかということを学んでもらう教材だ。

 このようなある項目に的を絞った教材の他に、入試過去問の長文等で、よい練習になるものが、レベル別、ジャンル別にリストアップされており、適宜選択して利用している。ちなみに最近使用した中で印象深かったものとして、2012年明治大(法)の2番の長文問題がある。途中論旨が分かりにくくなるところがあるが、そこを乗り越えられるかが1つのポイントだ。動物に対する我々人間の意識を再考させるもので、内容的にも興味深い。レベルは中上級向けで、語数は1000語程度と長め。興味のある人はぜひ解いてみていただきたい。

 と、このように、状況の変化には十分に対応しているつもりだが、読解においても、また4択問題等でも、難しい文法があまり問われなくなったと言っても、英語学習において、文法をやらなくてよいということにはならない。ネイティブでない我々日本人が、大学入試レベルの高度な英語に対応するには、やはりベースに文法は必要だ。ただ以前のように、マニアックな知識や、意地悪で瑣末な文法問題にまで対応できる力は、必要なくなった。なので、文法の扱いは相対的に軽くしてよいとは思うが、この「軽く」には注意が必要だ。

 ウチに来る生徒は、年々文法力が下がっている気がするが、聞くと、どうも学校できちんと文法を習っていないことが多いようなのだ。上述のような変化を意識してか、あるいは、これまでの文法中心主義を改めようという気持ちが強いのか、文法の扱いがまさに軽いのだ。その扱い方は、解説をほとんどせずに、ただ問題集を解かせるというもの。何となく分かればいいから、などと言われつつ。

 でも、この軽さは何か違うと思う。そもそも勉強において、何となく、または曖昧な形で定着させるという、器用なことはできない気がする。少なくとも、勉強した段階では、明確な形で確実に覚えるべきだ。そうであっても時が経てば、得てして知識は曖昧になっていくものなのに(もちろんそうならないよう復習をするのだが)、初めから曖昧では、時が経てば、もはや何もなくなってしまう。

 私も文法の扱いは軽くしてよいと言ったが、私が思う「軽さ」は、ただ扱う項目を減らすというだけだ。きちんと理解して確実に覚えるという、勉強の精度は全く犠牲にしない。むしろ項目は絞ったから、その代わり確実に覚えてくださいね、というスタンスだ。少なくとも文法を習いたての時は、とりわけ重要単元(私が思うのは、品詞、文の要素、不定詞、動名詞、分詞、関係詞、接続詞)においては、そういう姿勢で勉強すべきだ。そうすることによって、体系的に文法が頭に収まり、文法的視点というものが養える。こうなれば、あとは問題集を解いておいてと言うだけでも、ある程度指導は成り立つ。

 元々私の英語学習のモットーは、「的を絞って確実に」なのだが、こと文法においては、「頑固に」それを貫きたいと思う。

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2013年4月30日 (火)

生徒の真意が察知できてよかった

 私は自分の中に湧いた感情を、自分で不思議に思うことがよくある。あれ、何で自分はここで怒っているんだろうとか、へぇ、自分はこういう事に感動する人だったんだ、といったように。授業でも同様の感覚を持つことがあり、最近もこんなことがあった。

 私の授業では、単語集から範囲を決めて単語を暗記してもらい、毎回テストをすることが多い。最近入会したある高3生も、単語テストを始めた。かれこれ5回ほど行なったが、大体いつも9割くらい(100問出題して90点)の得点で、出来はよかった。だけど不思議なことに、毎回採点をし終わった時に、何かがよくないという、もやもやした気持ちがなぜか湧いてくるのだ。9割も得点しているのだから、別に悪いことなどないではないかとも思うのだが、それでももやもや感はかき消せないのだ。

 そもそも、もやもや感の最初のきっかけは、テストの採点をして△が多かったことかもしれない。細かい話だが、私は単語集の単語を暗記してもらう際に、意味を1つ覚えればよいものと、複数覚えるべきものをはっきり指定している。そしてテストで、複数の意味を覚えるよう指定したのに、1つしか書かれていなかったら△で、0.5点(○の半分)扱いとしている。

 この生徒は×こそ少ないものの△が多く、採点した答案を見ると、総点はよくても視覚的な印象として、よい出来という感じがしなかった。さらに、次からは複数の意味もしっかり覚えるようにと言った時の、生徒の心許ない返事や、その他総合的な雰囲気などが加わり、何かこれではいけないという違和感につながった気がする。

 それにこの生徒は、元々結構知識があり、実際単語集の最初の方には、それほど知らない単語はないとのことだった。なので、その気になって勉強すれば、テストは満点だろうと期待していた。その期待からすると、9割の得点でも、よくやったというよりも、あれ、こんなものかなという気持ちの方が大きかったのだ。

 こうした感覚は生徒にも伝え、色々と話を交わした。当初生徒は、ちゃんとやってるんだけどなあとか、暗記は苦手だからなどと言っていたが、突っ込んで話を聞いてみると、重大な事実が判明した。実はこの生徒は、しっかり単語を覚えようという意思がなかったのだ。とは言っても、不真面目とか怠惰ということではない。単語を覚えているうちに、生徒のこれまでの経験から、あるいは生徒なりの考えから、この単語の意味を複数覚える必要はないのではないかとか、そもそもこの単語は入試に出ないのではないか、という疑念が生じてきて、どこか本気で取り組めなかったと言うのだ。

 このことが分かってようやく、私は合点がいった。私のもやもや感は、生徒のこうした意識が、テストの答案や、発言や、雰囲気に漏れ出て、それを私が察知したために生じたのだろう。

 でもとにかく、このことが早く分かってよかった。そもそも単語テストというものは、あくまでも手段であって目的ではない。ただ一時高得点を取ればよいというものではなく、テストをきっかけに、単語が長期的にも忘れないよう確実に定着した、ということにならなければ意味がない。

 なのでもちろんこの生徒には、しっかり覚えようという意思を持たせるべく、意識の改革を図った。生徒の現時点の経験で、各単語の重要度は判断できないはずだとか、単語集にしても、教師の私にしても、無駄な単語を覚えさせようなどという意思はないはずだ、といったことを説きつつ。生徒は十分理解してくれたようだし、今後の大いなる変化を期待したい。

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2013年3月31日 (日)

独立の経緯

 2月の記事にも書いたように、先月で独立して満10年になるのだが、今さらながら、独立の経緯を述べてみたい。

 私が独立したのは2003年だが、独立を意識したのは、その1年ほど前に、某大手予備校をクビになった時だ(ズバリ暴露してしまうが)。とは言っても、大手予備校はシビアな世界だから、クビになるのはそう珍しいことではないし、自分としても、多くの人を引きつけるカリスマ性もないようだし、大手予備校という場所は、何となくしっくりこないなと思っていたので、まあここが潮時かというくらいの、意外と軽い受け止め方だった。

 一方で、勤めていた他の予備校や塾では、雑務やその他の束縛で、自由に教えられなくなったり、とにかく生徒数確保第一という、営業至上主義になってきたりと、教えることに徹しずらい環境になってきた。

 ちなみにその時点で、教える仕事をし始めて15年ほどが経っていた。その間、より理想的な環境を求めて、何回か転職もしたが、思い至ったのは、結局どこも大体事情は同じということ。もはや、自分が思うように教えるには、独立して一人でやるしかないか、という心境にだんだんなっていった。

 折しもその頃(2002年)、世の中的にネット環境が整ってきて、大半の人がインターネットを使うようになっていた。なので、個人でも情報を発信して、多くの人に届けるということがしやすくなり、こうした状況も、独立に拍車をかけたと思う。実際2002年初頭から、まだ公表はしないものの、独立に備えたホームページは作り始めていた。

 実質的な独立のスタートは、翌2003年の2月、その時に教えていた医歯薬系の予備校で、残念ながら進学先が決まらなかった、3名の生徒が来てくれたことから始まる。その頃私は、独立の意志がかなり強まっていたので、より環境が整うのを待つとか、時機を見計らうとかよりも、どういう状況であれ、とりあえず独立してしまおうという気持ちだったが、その生徒たちが来てくれなければ、英語110番はよいスタートを切れなかったので、本当に感謝・感謝だ。

 ちなみに、その医歯薬系の予備校は、上述の某大手予備校でも、自由に教えられなかったり、営業至上主義だったりというところでもなく、また3名の生徒は、翌年はその予備校に通うつもりはないということを確認した上で、英語110番への入会を誘ったことを申し添えておきたい。

 純粋に英語110番としての生徒が初めて入会したのは、5月になってからだ。どこの組織にも頼らず、自らの名前だけで初めて生徒に来てもらうことができたのは、それはそれは感動で、体験授業後に継続して授業を行うことが決まった時は、思わずガッツポーズが出たことをよく覚えている。

 独立に際して不安はなかったのかと言えば、もちろんあった。ただどちみちこの業界は、組織に属していても、授業が悪ければ辞めさせられてしまうので、元々独立のハードルは低かった。そして独立を決意する決め手となったのは、ちょっとキザな言い方になってしまうが、自分が失敗しているイメージが湧かなかったことだ。よく人間は、イメージできることは実現でき、イメージできないことは実現できない、と言われるので、じゃあ、失敗がイメージできないということは、実際失敗しないということなのかな、と結論づけたのだ。また大手予備校をクビになったとは言え、授業そのものに自負はあったし、自分の授業を必要とする人が日本に一人もいない、ということも考えにくかった。とまあ、何かシミュレーションでもして、成功の目途が立ったから独立したというのではなく、実はある種の勘のようなものを頼りに始めてしまった、という感じなのだ。

 「英語110番」という名前なのだが、これはまさに天からの授かりものだ!? 名は体を表すというように、名前は非常に大事なので、何日も何日も考え続け、色々なものを思いついたが、どれも何かが違うという感じだった。でも「英語110番」という名が天から降ってきた(まさにこう例えるのが適切)時は、ズバリ、あ、これだ、と感じたのだ。他の名と比較しようという気も起きないくらい、強いものを感じた。名前を考えるにあたっては、「英語で困っている方、お助けします」といった感じが表せればいいなと思っていたが、それがまさに形となって天から降ってきたのかもしれない。そして生徒を含め色々な人に意見を求めたところ、概ね好評だったので、名前は「英語110番」でいこうと決めた。

 とまあ、あまりドラマチックな苦労話とかがなく、読者の期待を裏切ってしまった面があるかもしれないが、私の独立の経緯は以上のようなものなのだ。

 独立をして、私は本来自由を手に入れたことになるが、実際のところ自由という感覚はない。基本的には忙しいし、ほぼいつも何かに追われているという感じだ。決して好きな時に休めるわけでもない。組織であれ一人であれ、仕事である以上、何らかの制約がかかるのは当然だろう。でも一人で運営していると、理不尽な制約や要求はないわけで、精神衛生上メリットが大きいと思う。

 一人で寂しくないかというと、実は寂しくない。独立して改めて思ったが、私は根本的に一人が好きなようで、独立後はむしろ、精神的に安定して日々を過ごせているかもしれない。もちろん人とのつき合いが全くないわけではなく、同業者(以前勤めていた塾、予備校(クビになった大手予備校を含む)の同僚など)との交流もある。

 私の独立は、単にわがままを通しているだけとも言えるが、自分に向いたポジションをとらせてもらっているとも言える。やはり人には向き不向きがあり、その人に応じた立場があると思う。私の場合は、世の中的に大きなインパクトを与えるというよりも、身近な目前の援助を求める人に最大限の援助を与える、ということが果たすべき役割なように思える。

 それに本来塾というものは、個々の教える側が、ポリシーなり教え方なりを提示し、それを求める者がその教えを受ける、という単純なもの。でも複雑化した現在、この単純なことを成すのが意外と難しい。だからむしろ一人で、塾の原点とも言えるこの単純さを貫きたいとも思っている。まあ皆が皆一人でやるのはどうかと思うが、こういう人がいてもよいのではないだろうか。

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2013年2月28日 (木)

英語110番・満10年

 この2月で、英語110番は満10年を迎えた。まさに10年前私は、自分が行いたい指導を貫くために、そしてある意味では、自由な生き方を模索すべく、独立をしたのだ。(独立の経緯はコチラ

 10年は一昔と言うが、振り返ると、色々なことが思い出される。世の中の変化も感じるし、生徒の気質の変化も感じるし、入試傾向の変化も感じるし、自分自身の変化も感じる。だけど10年目とは言っても、実は、特別な感慨はないというのが、今の気持ちに一番近いかもしれない。こう言うと、何か冷めている印象を与えるかもしれないが、私にとって、独立して一人で、自分が思うように英語の指導をするということは、とても普通で自然なことなので(実は趣味のようなものとも言える)、普通のことを10年続けても普通であって、特別ではないのだ。

 実際この10年、将来どうなるのかなどと、先のことを考えたり、生徒数を何人集めようなどと、営業上の目標を考えたりしたことはほとんどなく、とにかく一人一人目前の生徒の指導をきちんと続けていたら(今も、入試が不本意な結果だった生徒への対応で忙しく・・・)、いつの間にか10年が経っていた、という感じだ。

 でも、こんなことが言えるのも、ひとえに生徒が来てくれたからだ。どんなに、自分の指導を貫きたい、自由な生き方がしたいと言ったところで、生徒が来てくれなければ、それも叶わない。だから、このようなある種恵まれた生き方を可能にしてくれた、これまでに出会った全ての生徒、そして保護者の方に、この場を借りて、改めて感謝を申し上げる次第だ。

 この10年、色々な生徒に接してきた。見事目標を達成した生徒もいたし、残念ながらそうならなかった生徒もいた。私の指導がぴったりマッチしたと思える生徒もいたし、残念ながら、お互いの思いが相容れず、上手く事が進まない生徒(もしくは保護者の方)もいた。

 日々の授業でも、よいものはよいと言ったし、悪いものは悪いと言った。生徒数確保のために、あるいは波風を立てないために、悪いものをよいと言ったことはないし、大丈夫でないのに大丈夫と言ったこともない。考えの甘い生徒には、それが正されるまで厳しく接したし、時には、その甘さをよしとする保護者の方にも厳しく接した。退会を勧める場合も少なからずあった。

 でもどんな場合でも、私なりの責任として(というより、私の性格上そうなってしまうだけとも言えるが)、私は生徒や保護者の方に、正直に、そして真摯に接してきたつもりだ。十分に話もした。だから、私の指導が役立ったと思ってくれた生徒はもちろん、指導方針が合わない等で、そう思っていない生徒(あるいは保護者の方)に対しても、何か意味あるものは残せたのではないかと思いたい。

 私は何らかの組織の意向に縛られることがないし、特別競わなければならない相手もいない。だから、正直な指導がしやすいし、奇をてらわず、自然体で接することもしやすいわけで(今の時代、これは意外と貴重ではないか)、こうしたことは私の義務なのではないかと、10年という節目に改めて思った。というより、自分の性格からして、そういう風にしか出来なかったし、今後も同じようになるのだろうと思う。

 上でも述べたように、私の今の立場は、生徒が来てくれなければ、維持できない。だから本来なら、自分の指導を貫きたいとばかりは言えない。でもポリシーを曲げてまで、生徒数確保を優先したくない、というよりできない。やはりポリシーをはっきり打ち出して、それを求める生徒がやってきて、その生徒には正直な、真摯な指導を行なう。そうしていたら、持続可能な数の生徒が集まっていた、という形を目指したい。

 曲がりなりにも10年間、そのような形で何とかやってきたわけなので、今後も独善的にならないよう気をつけた上で、しっかりポリシーを打ち出し、ぶれずに、正直な、真摯な指導を続けていきたいと思う。自由な立場で、自分にとっては趣味のような授業が続けられたこの10年に、大いに感謝をしつつ。

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