カテゴリー「日々の授業」の24件の記事

2018年5月31日 (木)

勉強法はよくても、前提が違っていないか?

 英語の勉強は、理解して覚えるだけではダメで、問題を何度も解き直したり、英文を何度も音読したりといった反復作業が必要だ。そうした反復作業で、理屈で何とか分かるものを、直感的に分かる域に高めて初めて実力がつくと言える。
 
 もっとも音読などの反復作業の重要性は随分前から言われていて、最近はそう声高に言わなくても皆さん結構やっているようなのだが、逆に最近気になるのは、「ただ」音読している、「ただ」問題を解いているという事例が多くなったことだ。
 
 例えば長文の音読はしているという生徒に、この段落の主旨は?、なぜ筆者はこう考えているの?、この単語の意味は?などと聞いても、ほとんど答えられない場合が結構ある。
 
 また文法問題集を何度も解き直しているという生徒に、なぜこれが答なの?、この問題のテーマは?、そもそも不定詞の用法の区別は?などと聞いても、やはり答えられない場合が多い。
 
 ちなみに音読というのは、まずは授業等で単語や文法や内容を学び、ひとまず分かったかなという英文に対して行うことに意味がある。理屈を介してやっと分かるという段階では、時間もかかって入試等の実戦では対処しきれないので、音読作業を通して、瞬時に直感的に分かる域にまで高めるという訳だ。あとは何度も英文に触れることで、一度覚えた単語を忘れにくくするという効果もある。
 
 でも元々分かっていない英文を読み直しても、そもそも分かっていないのだから、直感的に分かるようになるはずもない。そうしたやり方では、せっかくの音読作業もほぼ意味のないものとなってしまう。
 
 文法問題にしても、答の根拠も、問題のテーマも分からない状態で何度解き直しても、実戦で役立つ力が身につかないのは明らかなはずだ(全く同じ問題が出る定期テスト対策としては有効かもしれないが)。得てしてこうしたやり方をしてしまう生徒は、とにかく多くの問題をこなすことが重要だと思っている節があるが、問題数を減らしてでも、問題のテーマや答の根拠を理解する(必ずしも人に明確に説明できなくてもよい)ことにもっと時間を割くべきだ。
 
 さらに言えば、文法学習は、4択の文法問題(総じて入試ではあまり出ない)対策のためだけではなく、長文に役立つ視点でも学んでほしい。例えば不定詞には3用法あって、副詞的用法はさらに5つほどに意味(訳)が分かれて、そしてこういう特徴がある時はこの意味だ、といったことを整理して頭に入れることだ。
 
 いずれにしても、勉強している本人が問題意識や目的を持たず、何となくやっているだけで力がつくということは、ほぼあり得ない。確かに英語の勉強では、どうしても理屈で理解できないものを、何度も反復して先に理屈抜きで覚えてしまって、後から、あっ、こういうことだったのかと納得感を湧かせる、というやり方もある(実際私も学生時代にやっていた)。ただ、そういう手法が有効なこともあるというだけで、全ての勉強を「何となく」のやり方にしてしまっては、あまりにも効率が悪い。
 
 以上のように、音読といった巷で言われているよい勉強法も、前提が間違っていては効果がなくなってしまう。心当たりのある方は、ぜひ見直してみてはいかがだろうか。

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2018年4月30日 (月)

ネット検索に頼ると、単語をたくさん覚えなければならなくなる??

 ウチに来る生徒の大半は、覚えるべき単語が覚えられていないのだが(そしてこれこそが英語が出来ない理由の筆頭)、最近来た生徒(浪人生)はそうではなく、非常によく覚えていた。実際チェックをしてみると、使っている単語集(シス単)はほぼ完璧に覚えられていた。
 
 もちろんこのこと自体は非常によいことだし、こういう根本の作業をしっかり行う生徒は伸びるので、頼もしい限りなのだが、この生徒の場合ちょっとやり過ぎだった。入試問題の全てを暗記で対処しようとしていたのだ。使っているという生徒の単語集を見ると、あまり頻繁には見かけない難単語が結構多く書き加えられている。入試過去問などで出くわした分からない単語を、基本的に書き抜いたそうだ。
 
 当然ながら英語の大学入試問題は、全てを覚えた知識のみで対処するのは無理だ。合格者だって全てを覚えている訳ではない。問題によっては推測で対処するし、そもそも知識よりも思考力を問う問題もある。特別な難単語を知っているよりも、長文のテーマに関する知識を知っていたから得点できたという問題もあるだろう(AI、ベーシックインカムなど、最近は市販の問題集に載っていないような新ネタも出題される)。
 
 単語だけに話を絞っても、やはり確実に暗記しておくべきものと、推測で対処すればいいもの(あるいは全く知らなくていいもの)があるが、その分かりやすい境目は、市販の単語集に載っているかいないか、と考えていいのではないだろうか。やはり書物として世に出ているだけあり、十分検証はなされており、自分の感覚としても、単語集に載っているものを覚えていれば、逆に言えば載っていないものは覚えていなくても、合格点は取れるだろうと思える。
 
 ではなぜこの生徒は、全てを暗記で対処しようとしたのか? 基本的に真面目だからというのと、過去問で知らない単語に出くわすととにかく不安だからというのに加え、Googleなどでの検索も影響したようだ。早慶等の難関大だと単語集に載っている2000くらいでは足りない、といった情報に圧倒されてしまったのだ。ちなみにこの生徒は宅浪ということあって、ネットの情報の影響は大きかった。
 
 ただ一般的な単語集を覚えれば十分と思っている私は、そんなに極端な情報が多く出回っているのかと思い、ズバリ「早慶 単語 何個覚える」で検索してみたところ、実際の早慶の学生が相談を受けるサイトが見つかった。そこではシス単で十分とか、ターゲット1900の1500くらいしか覚えなかった、などの意見が多く、私としてはやっぱりそんなもんだよね、という感じだった。
 
 このように同じ事柄を検索しても(必ずしも同じワードで検索した訳ではないが)、生徒は単語はたくさん覚えるべきという情報により意識が向かい、私は市販の単語集の分量で十分という情報により意識が向かった。そしてその意識に応じてそれぞれ真逆と言える結論を出した。まさに今はこういうことが起こるのだ。実際Googleは、過去の検索履歴などにより、同じワードで検索しても人によって検索結果が違うようだ。
 
 情報が増え過ぎたことも問題だ。ネット検索は本当に便利で有益で、私はかれこれ20年以上お世話になっているが、それなりのキーワードで検索すれば、いかにも上手くまとまったページが上位にきて、いくつかの情報を総合すれば、調べたいことの全体像をつかむことも可能だったように思う。でも少なくとも3年くらい前から事情が変わってきた。もうあまりにも情報が多くなって、細かな点にこだわったり、確かにそこだけ考えれば事実かもしれないけど、全体から見たらどうなんだ?というサイトが増え、以前よりむしろ全体像はつかみにくくなった気がする。
 
 いずれにしても、情報過多の時代と言われて久しいが、もはや今はそんな言葉では言い足りないくらいの状況になってしまった。少し前までは検索の仕方を上手にして、いかにいい情報を得るかがポイントだったが、今はそれだけでは大量の情報に埋もれてしまい、つまりはどういうことなんだ、何が一番のポイントなんだ、ということはつかめずに終わってしまうかもしれない。
 
 という訳で今や検索をしさえすれば、正しい情報、その人にとって最適な情報が得られるとは限らない。これまで以上に、何が重要か、何が本質かを見抜く人間自身の能力を高めなければならないし、検索結果にしっくりこないなら、やはり生身の人間にも相談し、総合的な観点から結論を下すことが必要だろう。

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2015年4月30日 (木)

今の生徒は真面目だが・・・

 私は、かれこれ30年ほど教える仕事をしている。これだけ教えていると、昔と比べ、やはり生徒の気質は変わってきたなあ、とつくづく感じる。変わった点は色々あるのだが、最近特に感じるのは、生徒が真面目になったということだ。

 真面目なのは本来よいことなのだが、やはり何事もバランスが大切で、行き過ぎると、あるいは方向性を間違えると、問題が生じてくる。最近は特に、言われたことをこなす、決まりは守る、ということばかりを優先して、肝心の出来や成果、そして自分の感覚さえもが二の次になっている、という事例が増えてきた気がする。

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 例えば、こんな例があった。

 ある生徒は、毎週単語を100個ずつ覚え、それをテストをしているのだが、毎回微妙な出来だった。さらには前の週に覚えたはずの単語をチェックすると、既にかなりの部分忘れている。何よりも、毎回のテストがつらそうで(実際唸り声を上げながら(!?)行なうこともあった)、週100個というペースが、その生徒には合っていないのではないかと思われた。

 そのことを生徒に指摘すると、ペースが遅くなるのが不安だ、そして何よりも、決めたことをやらないのはよくない気がする、とのことだった。でも、早いペースで進んでも、あまり覚えていないのなら、結局やり直すハメになって、効率が悪いのではないかと指摘すると、この点に考えを巡らせたことはないようで、そもそも私の指摘がピンと来ていないようだった。

 そもそも週100個というペースは、学校がそのような進度だったので、とりあえずそれに合わせてみようか、ということで始めただけで、そのペースでなくてもよかったのだ。実際この生徒の場合、週あたりの個数をもっと減らしても、入試までには必要な単語が網羅できた。

 だから本来なら、せっかくの個人指導なのだし、本来やるべき量・ペース、自分にとってしっくりくる量・ペース、目標のレベル、現実の自分の出来、などを総合的に考え合わせて、最も効果的だと思われるやり方で進むのが、重要なはずなのだ。でもこの生徒は、そうした実効性には考えが及ばず、とにかく決めたことをやる、ということにだけ力を注いでいたのだ。

 ちなみに学校の場合は、自分だけペースを変えることは、もちろん出来ないが、それでも自分の感覚に基づいて、理解が怪しいところは後でやり直したり、全てを完璧にこなすのが難しいのなら、さしあたりの優先事項を選び出し、それを確実に定着させるようにするなど、自分なりの対策はとるべきだ。

 また、こんな例もあった。

 ある高3生が持っていた長文問題集が気になり、それは何かと尋ねると、昨年(高2時)学校の授業で使っていた教材だと言う。では、その教材で習ったことで何を覚えているか?と聞くと、何も覚えていないとの答。そもそもこの教材は昨年のもので、今は使っていないのだから、覚えているわけがないのでは、と言わんばかりに・・・ 答の内容も驚きだったが、何のためらいもなく即答したことも驚きだった。

 つまりこの生徒は、何も覚えていないことを問題視していないのだ。それどころか、言われたことはきちんとやっていた、という自負がある。授業の前に分からない単語は調べたし、設問も解いたし、授業では板書もきちんとしたし、復習も一応したし、学校から指示されたことはきちんとこなした、ということなのだ。

 せっかく勉強したのに、そんなに忘れているのでは、意味がないのではと指摘すると、生徒は、でも言われたことはきちんとやりましたよと、そここそが大事とばかりにアピールしてくる。それを聞いて再度私は、でも忘れていては意味がないのでは・・・と堂々巡りになっていく。

 もちろん長文問題集の隅から隅まで覚えている必要はない。また、覚えているものが言葉で明確に言えなくても、本人のみぞ知る何か感覚的なものが身についているのかもしれない。でも本来長文問題をこなしたら、その後は何度も音読して、頭にしみ込ませることが、実力をつけるためには必要だ。そうした作業を繰り返していれば、その長文をきっかけに覚えた単語や文法、どういう内容の長文があったか、印象深かった一節、内容把握に苦しんだ箇所、和訳に苦闘した部分など、何かしら記憶しているはずなのだ。

 そもそも学校では、この音読という重要な作業をするよう指示しなかったのかが気になるが、生徒によれば、言われたことはきちんとやったはずなので、その指示はなかったと思うとのことだ。ただこの学校の指導が全体を通して緻密なことを考えると、生徒を疑うようで悪いが、恐らく音読の指示はあったものと思われる。たまたまその指示だけ聞きそびれたか、その指示が曖昧なものだったのかもしれない。

 いずれにしてもこの生徒は、言われたことはやったというだけで満足し、長文問題を1つこなす毎に、自分がどう成長したかということを考えることがなかったのだ。

 さらには、こんな例も。

 ある生徒の学校では、長期休みの期間に、特別講習を行なうと言う。ただ、どの講座を受講するかは自由に決めてよいし、そもそも受講してもしなくてもよい、とのことだった。

 その生徒に、どの講座を取ることにしたのかと聞くと、それはそれはたくさんの講座を取っていて、しかも、今のレベルを考えたら難しすぎるのでは、という講座も多く含まれていた。

 現状を考えると、これまでに学校で習ったことも、復習不足で定着したとは言えないので、そんなに講座を取ったら、復習の時間がなくなってしまうのでは、そして私の授業の予習・復習の時間もなくなってしまうのでは、と指摘した。すると、そんなことは考えたこともなかったようで(そここそ考えるべきなのに・・・)、最初はポカンとした様子だったが、よく考えてもらったところ、確かに復習時間は必要だということは納得したようで、講座数は適量に抑えることにした。そして講座のレベルも、現状に合ったものに絞った。

 予習・復習の時間、つまり定着のための時間を無視して、とにかく講座をたくさん取れば、とにかく問題集をたくさんこなせば、出来るようになると思っているという、こうした過ちは、実は昔から見られるものだが、最近は、真面目にコツコツやるタイプでも、こうした過ちを犯す例が増えてきた気がする。

 いずれにしてもこの生徒は、自分の状況に関心を持たず、自分の状況とは無関係に事を進めていたことが問題だった。

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 上の3例の生徒とも、皆真面目に勉強している。だからこそ、真面目さの方向違いによって、勉強の効果が減るのは、何としても食い止めたいところだ。

 ちなみによい勉強法と言われるものも、ある生徒には合っていないかもしれないし、合ってはいても、それをするタイミングは今ではない、という場合もある。そうしたことが判断できるためには、当然自分の状況がきちんと把握できていなければならない。

 どうせ真面目にやるなら、そこを真面目にやってほしい。

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2014年11月30日 (日)

和訳は不要?

 昔、私が高校生だった1980年代や90年代は、学校の授業は受験には役立たないと言われていた。それが徐々に学校でも、受験を意識した授業を行なうようになってきた。学校教育的な是非はあるかもしれないが、受験生にとっては有難いことだろう。でも最近それが行き過ぎて、むしろ受験に逆効果なのではないかと思える例に出くわす。

 その端的な例は、和訳をしないことだ。現在ウチには、学校の読解の授業で、和訳をしていない(させられていない)という生徒(高1生、高2生)が複数いる。

 では読解の授業で何をしているのかと聞くと、音読や、文構造や内容的なポイントを、ごく簡単に口頭で解説するとのこと。和訳や新出単語の意味は、各授業後、場合によっては定期テストの前にまとめて、プリントとして配布されるらしい。

 さらに私としては、和訳をしないことが不思議なので、なぜ和訳をしないか、学校の先生は何か言っていたかと聞くと、分からないという生徒もいたが、早くから実戦を意識しているかららしい、という生徒もいた。入試では大量の英文を素早く読んで、主旨をつかまなければならず、じっくり和訳している時間はない。だから和訳しないでも理解できる力を早期から養う、ということのようだ。

 確かにそれはもっともな話で、私も最終的にはそうしたことを目指して、指導をしている。ただあくまでも、最終的に、そして臨機応変にということだ。もちろん受験学年の高3は、和訳なしの理解を特に重視する。が、それでも生徒の読み方が雑ならば、和訳の作業を増やして、読み方を修正したりもする。

 ましてや高1、高2では、アウトプット(既に持っている知識の運用)よりも、インプット(新しい知識の習得)の方を重視しなければならない。だからまずは本番を意識して、素早く英文を読んで主旨をつかむ練習をするにしても、その後は、きちんと和訳をさせ、知らなかった単語もリストアップして、暗記をしてもらう。

 そもそも学校の読解の教科書は、新しい課に入ると、結構な数の新出単語や、未習の文法事項を含む英文を読まなければならない。そうした英文に対して、和訳をしないで、素早く意味を取ろうとするのは非常に困難だし、勉強として効果的でない。本来そうした読み方を主目的とするなら、これまでに習った単語や文法で十分読めるはず、という教材で行なうべきだ。未知のことを多く含む英文に、さらっと読むような軽い接し方をするのでは、新しい知識も身についていかない。

 やはり、新出単語は自ら辞書などで調べ、さらには、辞書の表記通りではない、その英文に最適な訳語を、自ら頭をひねって考えたり、未習の文法事項も、参考書で調べ、自分なりの見当をつけるなどして、きちんと和訳をすべきだ。そして間違えていたところを授業で修正し、その後、せっかく身につけたことを忘れないために、そして、じっくり考えなければ分からなかったことが、今度は素早く分かるようになるために、何度も音読をするのだ。

 というように、単語調べ一つとっても、色々考えることがあり、意外と悪戦苦闘する。上述の学校の授業の例では、意味も載せた新出単語の一覧を配布してしまうとのことだが(和訳をしないことよりも、実はこのことの方が重大な問題)、これでは、貴重な悪戦苦闘の経験を奪ってしまい、苦労がない分、その後単語は記憶に残りにくくなる。そして、音読にしても、本来最も効果があるのは、自ら悪戦苦闘して意味をつかんだものを読む場合であって、しっかり解説がなされておらず、十分に理解しきれていない英文を音読しても、効果は薄いのだ。

 近年ますます、実戦で役立つ英語を身につけることが求められている。そうなると必ずやり玉にあがるのが和訳だ。実際に英語を使う場面では、素早く対処しなければならないのだから、和訳などしている暇はないとか、後からの修飾なども、前からどんどん理解できるようにならなければ、特にリスニングでついていけなくなる、などがその理由だ。

 確かにその通りだが、実戦力を目標とするにしても、そこに至る過程の勉強が、常に実戦的である必要はない。速読が求められるからと言って、常に速読にこだわった勉強だけをしていたら、読みが雑になり、対処できる英語のレベルが上がっていかない。だから、時には和訳などをしながら、じっくり読むことも必要だ。

 大体和訳というものは、訳すことだけが目的なのではない。和訳は緻密な作業だから、それを行なうことによって、今まで何となく分かっていたつもりのことも、実はよく分かっていなかったことに気づいたりする。そうした経験が、新たな学びのきっかけとなり、英語力を一歩高めていくのだ。

 もちろん、和訳しかしないとか、意味が分かった後でさえも、日本語の表現の工夫に過度にこだわる、といったことは問題だが、適切なタイミングで、適切な分量を行なえば、和訳は、実戦力をつけるための重要な作業となるだろう。

 受験においては、当然実戦力は必要だ。速読力もなければいけないし、設問の解法のコツも知っておくべきだろう。ただそれよりも前に、骨太の実力が必要だ。言いかえれば、実感として分かるという感覚、しっくりくる感覚がなければならない。そうした力を養うには、自ら単語を調べて、悪戦苦闘しながら和訳をする、という作業は非常に有益だと思う。何か英語がしっくりこないあなた、ぜひ和訳をしてみよう。

 ちなみに、昨年(2013年)の高1生から、英語という科目名が、コミュニケーション英語という名に変わった。その名の通り、コミュニケーション能力を養う(読解力だけでなく、意見を発信する力も養う)ことを目指すようだが、教科書を見る限り、読解を中心に行なうと考えてよいのだろう。

 そうした変化もあって、もしや新しい学習指導要領に、和訳はさせないように、とでも書いてあるのかと思い、確認してみると、「訳読や和文英訳、文法指導が中心とならないよう留意し」とはあったが、禁止という文言は見当たらなかった。見方を変えれば、訳読が中心でなければ、和訳をしてもよいと解釈できる。これは、遠回しな言い方でお墨付きをもらったのだと判断し、今後も私は、適切な形での和訳指導を続けたいと思う。

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2014年8月31日 (日)

求めないものは手に入らない

 受験の天王山と言われる夏休みも終わりを迎えるが、受験生の皆さんは、うまく勉強を進められただろうか。その夏休みは、実戦的な勉強も意識すべき時だが、英語の受験勉強において、多くの受験生にとって、最後にして最大の山場となるのが、「速読力」の養成ではないだろうか。

 こつこつ勉強を続けて、必要な単語や熟語、文法を覚え、文脈の追い方などの読解法を習得すると、長文は読めるようになるが、さしあたりは、ゆっくりなら読めるが、という条件がつくことがほとんどだ。それでも結構な偉業達成なのだが、入試を突破するためには、長文を「速く」読めるようになる、という仕事が待っている。

 得てして低学年のうちは、リーディングの教科書を、辞書などで調べながらきちんと訳すというように、時間はあまり気にせず、とにかく精度を高める、という勉強が重視されがちだ。もちろんこうした作業を通して、まずは英語の実力の下地ができるので、これはこれで重要だ。でも如何せん、入試は解く時間が限られている。当然「速く」問題がこなせなければならない。なので「速さ」に主眼を置いた勉強も必要になる・・・精度を犠牲にしてさえも。

 ウチの授業でも、遅くとも高3の夏には、こうした「速さ」を意識した勉強を行なってもらうが、今年はなぜか、これに抵抗感を示す生徒が多い。

 「速く」読むには、細かい箇所にはこだわらずに、大体の主旨をつかみながら読み進めたり、わからない箇所は推測をしたり、とりあえず飛ばして読んでみたりといった、読解の精度を下げざるを得ない作業も必要になる。こうした作業が、それまでに行なってきたリーディングの勉強法・・・どの文もきちんと訳す、そしてきちんと訳してから次の文に進むといった勉強・・・に反するため、何か気持ちが悪くて抵抗感があったり、そんないい加減なことをしてよいのかと、罪悪感さえ持ったりするらしいのだ。

 こうした感覚は自然なものだが、最近は実は真面目な生徒が増えているので、より抵抗感が強まっているのかもしれない。その真面目さゆえか、これまでのじっくり型の勉強で何とかならないかと、食い下がる生徒もいたりする。もちろんそうした勉強は必要だ。それは受験が近づいても変わらない。でも、ゆっくりの勉強だけでは、どんなに磨きをかけても、ゆっくりからは脱せられない。少しは速くなるかもしれないが、画期的な変化はない。やはり、根本的に主眼を置くところを変えることが必要だ。「速く」を意識しないのに、自然に「速く」読めるようにはならない。求めないものは手に入らないのだ。

 当然のことだが、通常大学入試で全てがわかるということはない。どんなに勉強をしても、わからない単語には出くわすし、どこかしら内容がつかめない箇所にも出くわすものだ。ましてや第一志望の入試は、余裕を持って解けるなどということはないはずで、あれこれ手を尽くしてギリギリ合格点に達する、という感じではないだろうか。だから、知識を身につけたことで満足してしまっては、勉強としては不十分で、持っている知識を最大限に生かして、しかも限られた時間で最高のパフォーマンスを発揮できるようにするという、知識の習得とは次元の違う勉強も必要だ。

 真面目に勉強するのは、全くもってよいことだが、その真面目さが徒とならないよう、必要ないい加減さも、真面目に取り入れよう。

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2014年5月31日 (土)

普通がイチバン

 今の日本、何においても、他との差別化が必要なのか、変わったものがもてはやされる。なのでちょっとあまのじゃくな(!?)私は、逆に「普通」をウリにしようと思っている。と言うより、世間の風潮とは関係なく、当初から、奇をてらわず正攻法で(つまり普通のやり方で)やっていたというのが実情なのだが。

 英語の勉強法においても、何か画期的なものがあると期待したくなるかもしれないが、やはりそれはないと思う。大体そんないいものがあるなら、すでにもっと世に定着しているはずだし、学校でも導入されているはずだ。自分の経験でも、特別画期的な勉強法はないと言える。むしろ邪念を捨て、普通の勉強に徹することが、英語力を高める一番の近道だ。

 あるテレビ番組で聞いた、「誰でもできることを、誰にもできないくらいやる」という言葉が頭に焼きついている。素晴らしい言葉だと思うが、成功の秘訣はまさにこうしたことで、特別なことをやるという訳ではないのだ。

 ただ「普通」というものは、真理をついている代わりに、初めて学ぶ者にはとっつきにくかったり、ひたすら普通を押し通すだけでは単調だったりするので、その人に応じた例を挙げながら説明をしたり、項目を絞って説明をしたり、時には本題を離れて、面白さや刺激を優先させて事を進めたりもする。でもそれらは、あくまでも普通を貫くための方便。王道から逸れないように注意を払う。

 上述のように、今は何かと差別化が求められる。塾とて例外ではなく、他塾と比べて、あるいは他教師と比べて、際立った個性をアピールしなければならないようだ。それならば私は、普通さをアピールする。私は1人でやっており、組織の意向や他教師の動向を意識しないでよいので、堂々と普通を主張できる。

 唯一、普通を求める生徒が誰もいなくなってしまったら、考え直さざるを得ないのだが、そうなったらそうなったで、その時に考えよう。いや、そうならないように、「普通」のよさを、少しでも多くの生徒に伝えるよう頑張ろう。

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2014年3月30日 (日)

個人指導のジレンマ

 今さらの話だが、個人指導(家庭教師)のような1対1の指導のメリットは、生徒個人の特徴、レベルに合わせた指導ができるということだ。でもこのことは、デメリットにもなる。生徒に合わせることを意識しすぎると、本来目標とするレベルになかなか高まっていかないからだ。

 より生徒側に合わせれば、つまり、その時の生徒のレベルに合わせて問題を選択したり、生徒がつらいと思わないような分量に抑えたりすれば、そう無理をしないでも対処できるから、生徒は気分よく勉強ができるかもしれない。でもこれだと、目標に向かって学力が高まる、ということにはつながりにくい。

 一方で、より教師側に合わせれば、目標とするレベルから逆算して、今何をすべきかを考えて指導を行なうので、得てして、レベルも分量も、生徒が思っているものを上回ることが多く、つらい勉強となってしまうかもしれない。でもこの勉強についてきてくれるのであれば、学力は高まる。

 ということで、個人指導を行なっていると、生徒寄りで指導すべきか、教師寄りで指導すべきかで、ジレンマに陥るが、要は、そのバランスがとれた指導が、良い指導ということになるのだろう。でも、これがなかなか難しい。

 私の場合は、せっかく指導を受けてもらうのだからきちんと成果を出したい、という思いがふつふつと湧いてくるので ――― 別に恰好をつけているわけではなく、これは私の本能のような気がしている。そしてこの本能ゆえに、私はこの仕事に落ち着いたのだとも思っている。―――、教師寄りで指導を進めたいという気持ちが強い。なので、生徒にとっては大変なことも間々あると思う。

 でも教師寄りに指導すると言っても、有無を言わさず、こちらがやりたいことをやるというわけでは、もちろんない。目標とするレベルはこのくらいで、今の生徒の状況はこうで、だから目標に達するには、このくらいのペースで進まなければならない、といったことをきちんと話し、生徒に納得をしてもらった上で、指導を行なう。

 もちろん、理想ばかりを語っていても、当の生徒がやる気をなくしてしまったり、教師と生徒の信頼関係が壊れてしまっては、元も子もないので、その点には注意を払う。でもとにかく、生徒が楽だと思うレベル(難易度にしても分量にしても)でとどまらせてしまうことなく、少なくともその少し上のレベルのことは行なわせたい。本来進むべきペースではつらすぎるにしても、まずは半分の量から始めてみないかと提案するなど、何かしらの手は打って、少しでも上昇に向かわせたい。目標を達成したいなら、そして力を高めたいなら、やはりそうしたことは必要なので。

 究極の指導は、生徒が特につらいとは思わず、でもやるべき必要なことはやらせている、といったものなのだろう。その域に達するのはなかなか難しいと思うが、そこを目指して努力はしていきたい。そしてその域に至るまでは、ジレンマに悩みながらも、場合によっては反発を受けながらも、とにかく成果を出すということに主眼を置いて、指導をしていきたい。

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2013年7月31日 (水)

単語は自分でできる?

 夏休みとなり、入会希望者の体験授業も増えてきた。体験授業では、こちらの授業のやり方を示すとともに、色々と話を聞いたり、テストの点などのデータ類を見たりして、生徒の現状を分析し、今後の授業の方針、自らの勉強の仕方の注意点などを提示している。

 そこで私が言うことが多いパターンは、「一番のポイントは単語の暗記だ。とにかく単語の暗記を徹底してやらなければならない。」というもの。それに対し、「ポイントが単語なら、自分でできる。」と言って、入会しない生徒が少なからずいる。果たして本当に、単語は自分でできるのだろうか?

 もちろん一般論としては、単語は自分でできて何の不思議もないし、本来は自分でやるべきだ。でも、英語に困って、英語110番の門を叩くに至ったような状況の人はにとっては、単語が自分でできるか(もしくは単語を本当にやろうとしているのか)は正直言って疑わしい。そもそも、本当の意味で単語を自分で勉強できるためには、次のことが必要だ。

 1、継続的にやる気が維持できる
 2、自分の状況が正確に把握できる
 3、暗記の方法がわかる
 4、何を覚えたらよいかがわかる

 1について・・・最も重要なポイントで、技術論では解決できないやっかいなものだが、ともかくこのやる気がなければ始まらない。しかも継続的なやる気がなければ、暗記の作業は続かず、一時は覚えたにしても、結局忘れてしまい、なかなか単語は定着しない。

 2について・・・ここで特に大事なのが、単語を練習した結果、それで自分が覚えたのか、まだ覚えていないのか、判断ができるということだ。本来これはチェックすれば簡単にわかるのだが、勉強しているということ自体に満足してしまい、成果には意外と無頓着だったり、恐らく覚えているだろうという、希望的観測のみで判断を下したりと、上手くいっていない例が多いように思う。ちなみにこの判断ができないと、先に進むべきか、もう少しとどまって練習を重ねるべきか、あるいはそろそろ以前の復習をすべきか、といった判断も誤ってしまい、ここでもうひと押し練習すれば忘れなかったのに、それをせず結局忘れてしまったという、もったいないことが起こりがちだ。

 3について・・・労をかけずして覚えられるといった、夢のような暗記法は残念ながらない。暗記をするには、やはり一定の労力をかけることが必要だ。ただせっかく労力をかけるのなら、それを無駄にしないよう、次の点に注意したい。まずはよく言われることだが、五感を使うこと、具体的には、発音を聞き、自らも声に出して発音し、手を使って書く、ということが重要だ。脳に多種類の刺激を送ることが、記憶の定着を促進するのだ。単語暗記が苦手な人は、ただ単語集を眺めているだけというパターンが多いが、これではやはり刺激が少ない。もちろん反復作業も重要だ。一度練習したくらいでは忘れるのが普通なのだから。その際、どのくらいの頻度で、どの程度反復するかもポイントとなるが、その判断には、2で述べたように、自分の状況が正確に把握できることが必要になる。

 4について・・・大学受験が目標ならば、それに即した単語集を使うことが、何を覚えたらよいかを最も簡単に把握する方法だろう。ただ一口に単語集といっても、上級向け、初級向けとあり、生徒の今のレベルや、目標とするレベルによって、適切な選択が求められる。また、どの意味を覚えるかも重要だ。私は受験向けた単語暗記に際しては、基本的に、受験によく出る「1つ」の意味(大体単語集では、それは赤字で示されている)を「確実に」覚えることがポイントだと思っている。あれもこれも覚えようとすると、結局どれも頭に残らないことが多いからだ。ただ中には、2つ(またはそれ以上)の意味を覚えなければならないものもある。例えば appearは「現れる」と「~に見える」の2つを覚えなければならない。中学基本語だが、中学では習わない意味を覚えることも重要だ。例えば thenは「その時」「それから」だけでなく、「それなら」も覚えるのが必須だ。こうしたことを認識していないと、その単語を知らないわけではないが、必要な意味が覚えられていなかった、ということになってしまう。何を覚えたらよいかは、実は奥が深く、重要なポイントなのだ。

 以上のことを踏まえてもなお、もちろんそんなことはわかっているし、実践もしているというのなら問題はない。本当に単語は自分でできるだろう。でもそうでないのなら、英語110番の指導を受けていただくか、またはコーチ役になってくれる人を見つけ、以上のことを的確に指導してもらう必要があると思う。

 ちなみに生徒や保護者の方、さらには同業者からも、単語を教えると言っても一体何をやるのか、と問われることがあるが、それは以上のようなことにきちんと対処をするということだ。すなわち、生徒にやる気を出させ、かつそれを維持させ、生徒の現状や目標を把握して、それに基づいて何を覚えたらよいかを的確に指摘し、正しい暗記の方法を実行させ、どのくらい覚えたかを指摘し、適宜反復もさせ、必要な単語を確実に定着させる、そしてそれらの作業が自ら自然に行なえるようにする、ということだ。

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2013年6月30日 (日)

従来の教材が使えない?

 恐らく、私は頑固な方なのだろう。そもそも、自らの思いを貫くために、独立して一人で教えているくらいなのだから(3月の記事参照)。でも、やみくもに頑固な訳ではなく、状況には柔軟に対応しているつもりだ。その一つの表れとして、従来よく使っていた教材が、あまり使われなくなったということがある。時代の移り変わりとともに、学ぶべきことの中心が変わったり、入試問題の質が変わったりして、それらに対応した結果だ。

 例えば「精読」という教材がある。本格的な長文問題を行う前の下準備として、数行の英文をじっくり訳すというもので、オリジナルでも作成している(→見本)。従来精読の教材は、習った文法事項を長文読解にどう適用するかを学ぶことが中心だったが、こうした教材の出番がだんだん少なくなってきた。それはやはり、入試の質が変わって、文法や構造が複雑で難解な英文を読み解く必要性が減り、一文の難解さはそれほどでなくても、より長く情報量の多い文章から、主旨や重要なポイントがつかめたかを問うことが増えてきたからだ。

 そこで問われるのは、難解な英文を読み解く能力というより、論旨の展開をきちんと追いながら、筆者の言いたいことを確実につかむ力だ。こうした力を育成するのに、やはり従来の教材では対応しきれず、新しい教材を作成した(→見本)。文法の適用というよりも、主旨をつかむには、何に注意して読んだらよいかということを学んでもらう教材だ。

 このようなある項目に的を絞った教材の他に、入試過去問の長文等で、よい練習になるものが、レベル別、ジャンル別にリストアップされており、適宜選択して利用している。ちなみに最近使用した中で印象深かったものとして、2012年明治大(法)の2番の長文問題がある。途中論旨が分かりにくくなるところがあるが、そこを乗り越えられるかが1つのポイントだ。動物に対する我々人間の意識を再考させるもので、内容的にも興味深い。レベルは中上級向けで、語数は1000語程度と長め。興味のある人はぜひ解いてみていただきたい。

 と、このように、状況の変化には十分に対応しているつもりだが、読解においても、また4択問題等でも、難しい文法があまり問われなくなったと言っても、英語学習において、文法をやらなくてよいということにはならない。ネイティブでない我々日本人が、大学入試レベルの高度な英語に対応するには、やはりベースに文法は必要だ。ただ以前のように、マニアックな知識や、意地悪で瑣末な文法問題にまで対応できる力は、必要なくなった。なので、文法の扱いは相対的に軽くしてよいとは思うが、この「軽く」には注意が必要だ。

 ウチに来る生徒は、年々文法力が下がっている気がするが、聞くと、どうも学校できちんと文法を習っていないことが多いようなのだ。上述のような変化を意識してか、あるいは、これまでの文法中心主義を改めようという気持ちが強いのか、文法の扱いがまさに軽いのだ。その扱い方は、解説をほとんどせずに、ただ問題集を解かせるというもの。何となく分かればいいから、などと言われつつ。

 でも、この軽さは何か違うと思う。そもそも勉強において、何となく、または曖昧な形で定着させるという、器用なことはできない気がする。少なくとも、勉強した段階では、明確な形で確実に覚えるべきだ。そうであっても時が経てば、得てして知識は曖昧になっていくものなのに(もちろんそうならないよう復習をするのだが)、初めから曖昧では、時が経てば、もはや何もなくなってしまう。

 私も文法の扱いは軽くしてよいと言ったが、私が思う「軽さ」は、ただ扱う項目を減らすというだけだ。きちんと理解して確実に覚えるという、勉強の精度は全く犠牲にしない。むしろ項目は絞ったから、その代わり確実に覚えてくださいね、というスタンスだ。少なくとも文法を習いたての時は、とりわけ重要単元(私が思うのは、品詞、文の要素、不定詞、動名詞、分詞、関係詞、接続詞)においては、そういう姿勢で勉強すべきだ。そうすることによって、体系的に文法が頭に収まり、文法的視点というものが養える。こうなれば、あとは問題集を解いておいてと言うだけでも、ある程度指導は成り立つ。

 元々私の英語学習のモットーは、「的を絞って確実に」なのだが、こと文法においては、「頑固に」それを貫きたいと思う。

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2013年4月30日 (火)

生徒の真意が察知できてよかった

 私は自分の中に湧いた感情を、自分で不思議に思うことがよくある。あれ、何で自分はここで怒っているんだろうとか、へぇ、自分はこういう事に感動する人だったんだ、といったように。授業でも同様の感覚を持つことがあり、最近もこんなことがあった。

 私の授業では、単語集から範囲を決めて単語を暗記してもらい、毎回テストをすることが多い。最近入会したある高3生も、単語テストを始めた。かれこれ5回ほど行なったが、大体いつも9割くらい(100問出題して90点)の得点で、出来はよかった。だけど不思議なことに、毎回採点をし終わった時に、何かがよくないという、もやもやした気持ちがなぜか湧いてくるのだ。9割も得点しているのだから、別に悪いことなどないではないかとも思うのだが、それでももやもや感はかき消せないのだ。

 そもそも、もやもや感の最初のきっかけは、テストの採点をして△が多かったことかもしれない。細かい話だが、私は単語集の単語を暗記してもらう際に、意味を1つ覚えればよいものと、複数覚えるべきものをはっきり指定している。そしてテストで、複数の意味を覚えるよう指定したのに、1つしか書かれていなかったら△で、0.5点(○の半分)扱いとしている。

 この生徒は×こそ少ないものの△が多く、採点した答案を見ると、総点はよくても視覚的な印象として、よい出来という感じがしなかった。さらに、次からは複数の意味もしっかり覚えるようにと言った時の、生徒の心許ない返事や、その他総合的な雰囲気などが加わり、何かこれではいけないという違和感につながった気がする。

 それにこの生徒は、元々結構知識があり、実際単語集の最初の方には、それほど知らない単語はないとのことだった。なので、その気になって勉強すれば、テストは満点だろうと期待していた。その期待からすると、9割の得点でも、よくやったというよりも、あれ、こんなものかなという気持ちの方が大きかったのだ。

 こうした感覚は生徒にも伝え、色々と話を交わした。当初生徒は、ちゃんとやってるんだけどなあとか、暗記は苦手だからなどと言っていたが、突っ込んで話を聞いてみると、重大な事実が判明した。実はこの生徒は、しっかり単語を覚えようという意思がなかったのだ。とは言っても、不真面目とか怠惰ということではない。単語を覚えているうちに、生徒のこれまでの経験から、あるいは生徒なりの考えから、この単語の意味を複数覚える必要はないのではないかとか、そもそもこの単語は入試に出ないのではないか、という疑念が生じてきて、どこか本気で取り組めなかったと言うのだ。

 このことが分かってようやく、私は合点がいった。私のもやもや感は、生徒のこうした意識が、テストの答案や、発言や、雰囲気に漏れ出て、それを私が察知したために生じたのだろう。

 でもとにかく、このことが早く分かってよかった。そもそも単語テストというものは、あくまでも手段であって目的ではない。ただ一時高得点を取ればよいというものではなく、テストをきっかけに、単語が長期的にも忘れないよう確実に定着した、ということにならなければ意味がない。

 なのでもちろんこの生徒には、しっかり覚えようという意思を持たせるべく、意識の改革を図った。生徒の現時点の経験で、各単語の重要度は判断できないはずだとか、単語集にしても、教師の私にしても、無駄な単語を覚えさせようなどという意思はないはずだ、といったことを説きつつ。生徒は十分理解してくれたようだし、今後の大いなる変化を期待したい。

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