教育

2015年11月30日 (月)

他者の評価よりも、自分の「思い」

 NHK Eテレの、テストの花道という番組がある。名の通り、主にテストで点を上げるための勉強法を教えるものだ。見方によっては、やや型にはめて、単純化しすぎているきらいもあるが、一見つかみどころがないと思われることでも、目のつけどころや、何をすべきかをはっきり示してくれるので、実戦的で分かりやすい。

 総じてよい番組だとは思うのだが、先日ちょっと気になることがあった。その日の放送は、文章の書き方を扱っており、自分ならではの観点を持とう、ということがポイントだった。実際にはまずは何人かの高校生に、「私のふるさとのすばらしさ」というテーマで、400字で自由に書いてもらい、それに対して、作文指導の先生やエッセイストの人が評価をする、という構成だ。

 残念ながら、その作文がどうしても思い出せず、ここで提示することができないのだが・・・NHKのHPに掲載されているかなと思ったけど、なかった・・・、私の第一印象としては、素朴で、ほのぼのしていて、まあまあいい文なのでは、と思った。

 ただ作文の出来云々よりも、印象に残っているのは、先生方の評価のコメントだ。やれ、「小学生の作文みたい」だの、「そんなことは実際に体験したことがない人でも書ける」だの、「中身が薄っぺらい」だの、挙句の果てには「郷土愛を感じない」だの、ダメ出しの嵐。番組構成上、インパクトを与えるためなのかもしれないが・・・それにしても、最近のテレビ番組は、あからさまに相手をディスる(若者言葉、使ってみました)ものが多い・・・、授業に関しては厳しく行なう私でも、生徒に同情してしまうくらいだった。

 言われてみれば、先生方の評価もごもっともで、生徒の作文に改善の余地はあった。でもここで問題なのは、生徒の「思い」にまで評価を下そうとしていたことだ。確かに、生徒の作文に拙さはあったが、少なくとも本音で書かれていたとは思われた。だから、その本当の「思い」のより効果的な表現法を助言するならともかく、その「思い」自体を、他者がとやかく言う筋合いはないはずなのだ。

 ちなみに私も、受験指導をする立場として、生徒にダメ出しをすることもあるし、特定の考え方に仕向けることもある。でも生徒の「思い」に対して、とやかく言っているつもりはない。それどころかむしろ、数年前から、本音が聞けなくて困惑してしまう。ここで当てはまる法則は何だっけ?みたいな質問には、生徒は躊躇なく答えるものの、長文の内容に関して、この話あなたはどう思う?と聞くと、戸惑いを見せる。また、長文問題を初見で解いた時の自らの感触なども、答えづらいようだ。

 日本の若者は(最近は大人もだが)、自分の意見を言わないとよく言われるが、それは上のような、自分の「思い」を否定されることが、大きく影響しているのだと思う。もっとも、ここで話題にしたテレビ番組だけを批判しているのでは全然ない。のんびりした雰囲気で見ていた時に、あまりにも激しいツッコミがあり、それが強く印象に残ったので、話の切り口として利用させていただいただけで、こうしたツッコミは、程度の差こそあれ、日本の至るところで・・・学校で、塾で、友達同士で、家庭で・・・行なわれているように思う。

 結構前から日本では、個性を生かそうという教育方針になっているはずなのに、未だに、思ったことを言うことが奨励されない。だから日本の大多数の人は、自分の意見を考えるよりも、空気を読んで、その場にふさわしい意見を考える方に力を注ぐ。

 本音が言えない教育をずっと受けてきたら、そうした人が育ってしまうのは当然だが、一方で就職してからは急に、変化の激しい、グローバルの時代、より個性的な発想が必要だ、などと言われる。酷な話だが、現代は確かにグローバルの時代。実際に個性的な発想は求められる。ただそれよりも前に、グローバルなコミュニケーション、つまり思ったことをはっきり言うことが必要だ。

 と言いながらも、これまでの経緯を考えると、今後も、教育現場での、いや日本全体での、思ったことを言うことが奨励されない空気は、あまり変わらない気がする。だから、とりわけグローバルに活躍したい学生諸君は、周囲の人の受けがよさそうな意見を言う一方で、揺るぎない自分の意見を常に持ち合わせておく、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 さて冒頭の、文章を書くことに話を戻すと、情報発信の盛んな現代、文章を書く力は絶対にあった方がいい。もちろん、自分の「思い」がこもった文を、だ。確かに学生時代は、入試の小論文を始め、他者の何らかの基準に則って、評価がなされる中書くことが多いだろう。だから、自分の「思い」というよりも、評価が高そうなことを優先して書くこともやむを得ないと思う。でも将来的に必要になるのは、そつのない優等生的な文が書けることよりも、やはり自分の「思い」がしっかり表れている文が書けることだ。学校を卒業した後に文章を書くのは、もはや試験の時ではなく、実際に言いたいことがある時だろうから、その言いたいことがしっかり表れているかが、価値基準となる。というわけで文章に関しても、学生諸君は、他者の評価が高そうな文章を書くにしても、自分の意見もしっかりと持ち、できたら そちらも表現をしてみる、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 ちなみに私自身、文章を書くのは苦手で、自分の書いたものを読み直すと、色々と気になるところがあるが、中でも一番気になるのが、自分の頭の中にある思いや考えに比べて、書かれた文章は、どうもスケールダウンしているように思えることだ。つまり自分の「思い」がしっかり表れていないのだ。修行しなければ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月31日 (土)

学力の二極化 その2・・・対策の鍵は意識変革

 昨年も、学力の二極化について書いたことがある。以前なら出来る側に入っていた中間層が、出来ない側に回ってしまい、学力の二極化が起きている、という内容だ。そしてその理由は、中間層が、基本が確立しないまま、出来る人の勉強をまねてしまうから、さらに言えば、中間層が、単語や基本文法など覚えるべきことを確実に覚えないまま、問題集をこなすといった実戦的な勉強をメインにしているからだ、と述べた。

 出来る人の勉強法は、実戦的な問題集をどんどんこなしていく、といったことがクローズアップされるが、当然ながら、それが出来るから、あるいはそうしていて意味があるから、やっているのだ。

 例えば長文問題集では、全てとは言わないまでも、出てくる単語の大半は分かり、主旨をつかむには支障がないレベルになっていて、設問を間違えるにしても、そう多くはなく、解説を見ればすぐに納得がいくことが多い。いずれにしても、覚えていなかった単語を新たに覚えたり、分からなかった解法を習得したり、といった復習をするのに、そう時間はかからず、問題集を進めるペースが大きく乱れることはない。

 でも、出てくる単語がほとんど分からないという状態で、長文問題集に取り組んでも、そもそも英文が読めないのだから、実戦力を鍛える勉強にはならない。ましてや、よいペースを維持したいからと言って、分からない単語を放置して、どんどん先に進んでも、何の意味もない。

 だから、そのような状態の場合、実戦力は置いておいて、まずは単語の暗記などに徹するべきなのだ。そしてそれこそがまさに、中間層を出来る側に押し上げる、骨太の勉強法で、私は昔から、基本が出来ていない生徒には、問題集をこなさせるよりも、単語や文法といった基本事項の暗記を徹底させてきた。仮に問題集をやるにしても、数をこなしてナンボではなく、覚えてナンボ、という意識に変えさせてきた。

 ところが(ここからが、今回の記事の本題だが)、最近どうも、この意識変革が難しくなっている。別に面倒だから嫌だとか、反抗しているという訳ではないようだ(最近の生徒はむしろ真面目なので)。そうではなく今の生徒は、ある意味頑固になったというか、元々ある世界観を変えるのが難しいのだ。

 幸い元々、基本事項を確実に覚えるべきだ、という認識を持っている生徒は、昔も今も、事がスムーズに運ぶが、そうでない生徒に、認識を変えさせるのが、今は非常に難しくなっている気がする。

 自分の考えに自信を持つことは、もちろん大事だと思う。でもそれを絶対視したり、他者の考えを受け入れないのはよくない。高校生でも、もう全てを悟っているかのように話す人がいるが、若いのだから、自分にはまだ知らないことがたくさんある、と思う方が自然ではないか。

 ただ、生徒本人は意識を変えているつもりでも、そうなっていないということもありそうだ。根本的に世界観が違うものを理解するのは、思いの外難しい。分かったようで、分かっていなかったりする。

 長文問題集をどんどん進めるべきだと思っている人にとって、こちらの問題集の方がいいよ、といったアドバイスは、すんなり受け入れられるが、問題集をどんどん進めること自体が間違っている、という意見は、なかなか受け入れられない。そもそも思考回路にないので、無意識に聞き流してしまったりする。

 このように、全く違った考えは、そうすぐに理解できたり、納得できたりするものではないのだから、理解や納得を待って次に進むというよりも、まずはとにかく、言われるがままにやってみる、ということも必要だと思う。やっていくうちに、自分の中に変化が起こり、変化した後だからこそ、ようやく納得がいくということもあるのだから。

 英語に限らず、学力を上げるために、皆何らかの方策を考えるだろうが、今までの延長線上で考えることが多い。もちろんそれでよい場合もあるが、そうでない場合もある。少なくとも、今までのやり方で上手くいかなかったのなら、画期的に違う方法を試してみる価値はあるのではないか。たとえ最初は納得がいかなくても。

 今の生徒は、昔に比べて、納得感をより求めてくる気がする。もちろんこれは、自然なことだが、所詮その納得感は、まだ変化していない自分が感じるものだ。よりダイナミックな変化をもたらしてくれるのは、今の自分では納得がいかないほどスケールの大きいことだったり、全く世界観が違うものだったりするかもしれない。

 特に中間層の人、つまり出来る側に回るか、出来ない側に回るかの分かれ目にいる人は、ぜひ勇気を持って、違った世界に足を踏み入れてほしい。そして出来る側に回ってほしい。

 私は私で、納得感云々を話題にせずとも、知らぬ間に骨太の勉強をするようになる、といった方法も考えているのだが、果たして、そうした方法が見つかるかは微妙なところだ。今はとにかく、生徒にチャレンジしてもらうよう、上手く働きかけるのみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月31日 (金)

長文が出来ないのに長文をやる?

 「英語の長文が苦手なのですが、どうしたらよいでしょう?」という相談に対して、「長文をたくさん読んで長文に慣れよう」という指示がされることが多い。これは、ある意味正しいかもしれないが、そうした相談をする人の一般的な思いを考えると、必ずしも正しいとは言えなくなる。

 そもそも長文が苦手だと、長文をたくさん読むことは出来にくい(逆にたくさん読めるくらいなら、苦手ではないことになる)。だから上の指示を守ってたくさん読むためには、精度を下げた大ざっぱな読み方をするか、現段階でも楽に読める易しい教材を選ぶ必要がある。

 大ざっぱな読み方でも、難しい長文にチャレンジすることは必要な勉強だが、それだけでは、根本的な力の底上げにはならないし、一歩間違えると、どんな時でも雑に読む癖がついてしまう。一方、易しい英文ならたくさん読むことはしやすいが、難しい長文が読めるようにはならない。

 恐らく、長文が苦手でどうしたらよいかと相談する人の多くは、今読めるより難しい長文が読めるようになりたい、という思いがあるはずだが、結局どちらのやり方をしても、その目的にはかなわないことになってしまう。

 でも考えてみれば、これは当然のことだ。長文が読めるようになるために長文をやるというように、目的と手段が同じになってしまっているのだから。

 本来これはおかしなことで、例えば、逆上がりが出来ない人に、たくさん逆上がりをして慣れればよい、という指導はしないはずだし、泳げない人に、とにかく泳げばよい、という指導はしないはずだ。

 なのに勉強においては、意外とこの本来おかしなことが、まかり通ったりする。上述の英語長文の件の他にも、国語が苦手な人に、本をたくさん読みなさい、と指導するのもその例だ(そもそも国語が苦手だと本はたくさん読めないはずだが)。

 最終目標に至るには、色々な過程があり、順を追ってその過程を進んでいくべきなのに、最終目標ばかりに目がいってしまい、最終的に出来るようになればよいことを、早くも練習の過程で取り入れてしまうという過ちが、勉強では意外と見られる気がする。

 逆上がりが出来ない場合、まずは筋トレをするとか、足で蹴る練習をするとかをして、最終的に逆上がりが出来ることを目指すはずだが、英語の長文となると、長文を目指すならやはり長文をやるべきだ、となってしまいがちだ。

 もちろんある時には、上述のように、たとえ読みの精度が下がっても、難しい長文に取り組んだり、易しい長文を多く読んだりして、長文に慣れるという作業は必要だ。でもそれだけでは、根本的なレベルアップにはならない。

 一時は長文から離れて、単語・熟語をひたすら覚える、短い文をきちんと訳す、という作業を積んでから、長文に取り組んだ方が効果的なことが多い。特にかなり苦手なところから始めるのなら、なおさらだ。

 今は大事な夏休みの時期だ。入試本番を意識した実戦面が気になるかもしれない。でも最終的に求められることが、今やるべきこととは限らない。目的と手段を混同せず、パランスのよい勉強をすることが必要だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015年6月30日 (火)

英語長文は、小ネタの宝庫 その2

 先月話題にした小ネタの続きだが、取り上げるのは 2014年 慶応大(理工)第1問の長文だ。解こうと思っている受験生は、ネタバレになるのでご注意を。

 その長文のテーマは、人は外向的でなければならない、とするアメリカの文化に対する異論だ。そこには、アメリカは個性を尊重すると言いながら、外向的な性格しか認めない風潮があること、アメリカでも、外向的なふりをしているだけで、実は内向的な人も結構いること(統計によれば国民の1/2から1/3)、外向的な性格のみを理想とするのは間違いで、偉大な思想や発明は、自分の内面と静かに向き合うことから生まれていることも意識すべきだということ、などが書かれていた。

 この話は、面白いという類のものではないかもしれないが、何となく固定観念として持ってしまっていた、アメリカ人の国民性が覆され、本音の部分が垣間見えたというところで、興味深かった。

 そもそもアメリカ人は、それこそ全員明るいのだろう、というくらいのイメージがあったが、よく考えてみれば、3億人もいるアメリカ人全員が明るいというのもおかしな話で、やはりそんなことはなかったのね、という何か腑に落ちた思いだ。

 自由の国アメリカで、外向的でなければならないという心理的圧力がかかる、というのは意外だが、これに異を唱える意見が正々堂々と提示されるのも、やはり自由の国アメリカらしいなと、改めてアメリカのダイナミズムを感じる。

 ちなみにこの長文は、Susan Cain(スーザン・ケイン)のQuietという本からの抜粋のようだが、この話は、TEDが主催する有名なプレゼンイベントで、The power of introverts(内向的な人のパワー)という題で、Cain自身が2012年に講演している。NHKのEテレでも放送されていたし、ネットでは今でも見られる。

 それを見ると、入試長文の抜粋には載っていない核心部分が分かり、一層興味深い。現在世の中で私たちが直面している問題は、大きく複雑で、多くの人が協力しなければ解決できないことが多いが、だからと言って、常にグループ作業で皆でワイワイ事を進めるのもおかしい。まずは各人が一人静かにじっくり考えてアイデアを出し、それからそのアイデアを持ち寄って、ほどよく話し合うという方が、よい解決策が出せたりする。こうしたことができない、つまり内向的な人が力を発揮できない状況は、社会的にも損失だと、Cainは主張している。

 講演でCainは、自身の子供時代のサマーキャンプの体験も語っていた。皆で活動的にやるという精神を植えつけるために、全員でリズムに乗って「にぎやかに行こう!」などと何度も唱えさせられ、ちょっと一人で本を読もうとしたら、世話役の人が心配そうな顔でやって来て、皆で楽しくやらなければダメじゃないか、と言われたそうだ。こうした話を聞くと、アメリカでは、内向的だと本当に気苦労が多いのだな、ということが実感として伝わる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 さて全く話は変わるが、皆さんは、400年に3回、うるう年のはずなのにうるう年でない年があるのをご存知だろうか?

 言うまでもなく、うるう年は4年に1回やってくる。地球は太陽の周りを、約365と1/4日で回っていて、4年で約1日分足りなくなるので、それを補うためだ。

 しかしここでちょうど1日分を足すと、今度はほんの少し余剰分が生じ、それが400年で約3日分となるのだ。なので、この余った3日分を削るため、400年に3回、うるう年のはずの年をうるう年にせずに調整するのだ。

 ではどの年をうるう年にしないかというと、それは、400で割り切れない00で終わる年だ。だから、400で割り切れない1700年、1800年、1900年はうるう年でなかった。でも2000年は割り切れるので、通常通りうるう年だったのだ。

 私はこの話を何で知ったかと言うと、やはり英語の長文だ。それも20年以上も前の、1994年の桐朋高校の入試問題だ(こちらは大昔のものなので、ネタバレは気にせず・・・)。

 ちなみに2000年は普通にうるう年だったが、上述のことから、考えようによっては400年に1回の珍しい年とも言えた。なのでその年に、ニュースなどで報道があるのかなと思っていたが、残念ながらなかったように思う。

 それどころか私は、上記の事実を、その英語長文でしか見ていない。知り合いからも聞いた覚えはないし、学校でも習った記憶はないし(教えたという先生がいたのかもしれないが)、テレビなどでも見た覚えはない。つまり私は、1994年にその英語長文を見なければ、未だにその事実を知らなかったかもしれないのだ。やはり英語長文は、小ネタの宝庫なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月31日 (日)

英語長文は、小ネタの宝庫

 つい先日ちょっとしたテレビ番組で、「バターを塗ったトーストをテーブルから落とすと、なぜいつもバターの面が下になって(よりによって床が汚れるように)落ちるのか?」という疑問を、ある意味科学的に検証していた。この現象は決して偶然ではなく、必然性があるという。ポイントは、一般的なテーブルの高さが約70cmだということにあるようだが、詳しくは以下の通りだ。

 そもそも、トーストがテーブルから落ちる場合、テーブルの端からだんだんはみ出していく形で落ちるのが普通だ。そうするとトーストは、回転しながら落ちることになる。そして上述の約70cmの高さだと、ちょうど半回転(180度回転)したところで床に着くのだ。ちなみに、テーブルにトーストを置く場合、普通はバターのついた面を上にするため、それがちょうど半回転すると、バターの面が床に着くということになるのだ。

 なかなか興味深い話だが、実はこの話は元々知っていた。では何で知ったかというと、それは昨年のある高2生に見せてもらった、模擬試験の長文問題だ。その長文は、ある学校の授業で先生が生徒にエッセイの課題を出す、という設定になっていて、その課題の内容が、身近に起こる不運なこと(マーフィーの法則と称したりする)は、単なる偶然なのか、合理的理由があるのかを、例を挙げて説明せよ、というものだった。そしてある生徒が書いたエッセイの内容が、上のトーストの話だったのだ。・・・ちなみに、このトーストの話は、2013年の一橋大学の長文でも取り上げられていた(ソッドの法則と、名称は変わっていたが)。

 ある意味有名な話ではあるようだが、当時の私には新鮮で、印象深く、たわいない話ではあるのだが、感動さえ覚えた。と、このように、英語の入試長文や、模試の長文で、興味深い話、面白い小ネタに出くわすのは、楽しみの一つだ。社会の重大な問題や、最先端の科学ネタなども、もちろん興味をそそられるが、上のトーストの話のような、我々の生活に重大な影響は及ぼさず、カテゴリーもはっきりせず、他の教科でも、テレビニュースなどでも、取り上げにくいだろうなと思えるような小ネタが、一層好きだ。

 さて他に、英語長文から得た感動的な小ネタをいくつか挙げると、まずは、「常に絶対的方位を使う民族」の話がある。これは、2012年 成蹊大 文学部 第5問の長文で、テーマは、言語が空間や時間の認識にどう影響しているか、ということなのだが、その例として、オーストラリア先住民 アボリジニの一部の人たちが使う言語が挙げられている。そしてその言語では、常に絶対的方位を使うというのだ。

 絶対的方位とは、要するに東・西・南・北のことで、自分の位置や向きの影響を受けない。それと対照的なのが、前・後・左・右などの相対的方位で、自分の位置や向きによって言い方が変わる。我々は両方の方位を使い、大体において、大きな空間では絶対的方位、小さな空間では相対的方位、と使い分けている。前者の例は、「私の家は駅の南にある」、後者の例は、「カップはお皿の左にある」などだ。

 でも上述のアボリジニの人たちは、どんな時でも絶対的方位を使うため、「カップはお皿の南東にある」とか、「メアリーの南に立っている少年は私の兄です」などとなるのだ。当然こうした言い方ができるためには、方角が正確に分からなければならないため、アボリジニの人たちは方角の感覚が鋭くなっているようで、実際、5歳くらいの子供でも、北の方角をさすように求めると、正確に指さすことができるらしい。

 さらにこの話は、時間のことへと続いていく。

 例えば我々日本人が、何枚かの写真を起こった順に並べるよう求められたら、どのように並べるだろうか。通例、左から右へと並べるのではないだろうか。これは、通例人は時間的配列を文字を書いていく方向に合わせるからだそうだ。だから、英語が母国語の人に同じ作業を求めると、やはり左から右に並べる。でも、右から左に書くヘブライ語を話す人だと、右から左に並べるそうだ。

 では上述のアボリジニの人はどうするかと言うと、左から右でも、右から左でもなく、何と「東から西へ」並べるのだ! だから彼らに、南を向いて座ってもらって作業を頼むと、左から右に並べるし、東を向いて座ってもらうと、縦に自分の体に向かうように並べるのだ。

 いかがだろうか? ちょっと驚きではないだろうか? 驚きの話、興味深い話は色々あるが、このように、普遍的と考えて疑わなかったレベルのことが覆される、思いもよらぬものの見方に出くわすと、大いに興味をそそられるし、素朴にワクワクする。

 私がこの英文を知ったきっかけは、たまたまある生徒がこの成蹊大を受験するということで、私も予習のために解いてみた、ということなのだが、おかげで、こんな面白い英文に接することができて、生徒にも感謝だ。

 ちなみに、他に小ネタをあと2つほど取り上げようと思っていたのだが、この調子だと長くなりすぎるので、残りはまた日を改めて取り上げることにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月28日 (土)

やはりセンター試験について語ろう

 これまで年初めの1月は、いつもセンター試験に関する話題を書いてきたが、今年は、イスラム国による日本人人質殺害という、非常にショッキングな事件があったので、そのことを書いた。

 1月にセンター試験のことを書く、ということを決まりにしているわけではないが、ブログを始めてこれまで4年間、いつも1月はセンター試験のことを触れてきたので、今年も、1ケ月遅れとなったが、やはり触れてみたいと思う。

 と言いながら実は、今年のセンター試験に関しては、特筆すべきことはないのだ・・・ 例年通り、些末な知識の有無ではなく、多くの情報から大事な点がつかめているかを中心に問う、基礎的な英語の実力が測れる良問だった。

 確かに、総語数がやや増えたり、新形式の問題が少し加わったりという変化はあるが、総語数は毎年増えているし、新形式の問題は昨年も出されていて、特に今年ならではの変化ではない。

 さらには、例年個人的に感じていた、形式面には表れない特徴的なものも、今年は感じられなかった。例えば一昨年の2013年は、英語そのものの解釈というよりも、素早い情報処理力がないと読みづらいが、読めさえすれば設問は解きやすいという感じだった。一方で昨年の2014年は、英文自体は読みやすくなったが、設問処理により注意を要するものが多かったように思う。

 つまり今年のセンター試験は、極めて普通なのだ。何ら特別な技は必要ない。運動に例えると(ちょっと唐突?)、サッカーの技術は求められず、とにかく走れさえすれば、対処できるのだ。でも逆に、そこが落とし穴でもある。華麗なドリブルやシュートは、やはり練習をしなければ出来ないと思えるので、技術習得に向けてきちんと練習をするものだ。またドリブルやシュートは面白いので、よりそうした練習に向かわせる。ところが走ることは、元々何となく出来てしまうので、また面白味に欠けることも手伝って、特別何か対策をしようとは思わないかもしれない。

 確かに、自分の好きな距離を好きなペースで走ってよいというなら、誰もが走れるということになるだろう。ただセンター試験では、結構な長距離を、結構な短時間で走ることが求められる。センター試験の得点が振るわない人は、そうしたことに向けた練習がなされていない。走ることはしていても、基本的なフォームがなっていなかったり、走る量が不足していたり、あまりにもスローペースだったり、ひどい場合には全く走らなかったり、また、本番ではほとんど求められないのに、ドリブルやシュートの練習ばかりをしていたり、といった感じだ。

 センター試験が長距離走だとしたら、難関私大の入試は、サッカーの試合となる。なので、ドリブルやシュートの技術も求められ、それに向けた練習は必要だ。だけど当然ながら、そうした技術も、しっかり走ることができなければ、生かしようがないということを、忘れてはいけない。結局難関大対策でも、センター試験に向けた対策と同様、まずはしっかりと走り込むことが必要なのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 センター試験に関する話で、もう1つ。

 いつの頃からか、センター同日体験受験といったイベントが定着している。予備校や、さらには学校が、センター試験の本番と同じ日に、同じ問題を、高2生、場合によっては高1生に受験させるというものだ。

 特に高2生にとっては、実際の受験のちょうど1年前、世の中もまさに受験ムードの時に、本番と同じ問題を解くのは、モチベーション・アップにもつながって、よいことだろう。また、ちょうど1年後に受ける問題の特徴、および自分の現状を知ることができ、その後の勉強の方針を決めるのにも役立つだろう。ただし有意義なのは、ある程度は出来るという場合だ。

 センター試験は、入試全体から見ればやはり易しいので、英語がまずまず出来れば、高2生でも高得点を取ることは可能だ。実際8割取れたなど、景気のいい話もよく耳にする。一方で、全く出来なかった、量も多くて何が何だかわからなかった、といった声も聞かれる。

 こうした生徒にとっては、残念ながら、このイベントに意義があるかは疑問だ。そもそも入試の過去問に有意義に取り組むには、得点はともかく、分からないところや自らの課題が、ある程度把握できるくらいのレベルになっている必要がある。そうなっていない状態で過去問に取り組むのは、やはりまだ早いと思う。それどころか、貴重な過去問を無駄にしてしまったとも言える。

 入試の過去問は(特に最新のものは)、実戦力を試すのに、これ以上ない教材だ。どうせなら、初見で新鮮味のある状態で取り組みたい。全く歯が立たない状態の時に、過去問に触れても実戦力を試す練習にはならない上に、なまじ触れてしまったために、その後力がついてから過去問を解いた時に、そう言えばこういう英文があったなどと、以前の記憶がよみがえり、全くの初見の感覚で解くことができず、本番のシミュレーションにならなくなってしまう。・・・すっからかんに忘れているから大丈夫だ(!?)という生徒もいるが・・・

 勉強にはインプットの勉強と、アウトプットの勉強とあるが、過去問を解くのはアウトプットの勉強だ。でもそれは、インプットされたものを上手く運用するための勉強で、インプットが不足している状態で行なっても意味がない。インプットが不足しているのなら、何よりもインプットを増やす勉強をすべきだ。

 ちなみにセンター同日体験受験は、5教科も受けるとなると、かなりの時間が取られる。生徒によっては、その時間、単語を覚えること(つまりインプットの勉強)にでも使った方が、はるかによかったのではないか、と思える場合もある。

 出来はともかく、このイベントをきっかけにやる気が出たのなら、それはそれで有意義だったと言えるだろう。また予備校や学校で半ば強制されるので、受験しないわけにはいかないという実状もあるかもしれない。でも、ただイベント的な盛り上がりで終わらせるのではなく、自分なりの意義をきちんと考え、せっかくのイベントを無駄に終わらせないようにしたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月31日 (金)

実用英語が身につかなかった理由は、技能の偏りだけではない

 先日、現在のセンター試験に代わる新しいテスト(平成32年度から実施)の案が示された。そして英語に関しては、聞く・話す・読む・書くの4技能を測定する、TOEFLなどの外部試験を導入するとのことだ。特に英語に関する案は、以前から注目していたが、実施時期が6年後だと明示されると、より現実感を持って受け止めるようになる。

 こうした変化は、国際化が進み、実際に役立つ英語力を身につけさせなければならない、という状況に対応したものだ。これまで大学受験では、ほとんど「読む」ことしか問うていなかったため、学生もそれに合わせて「読む」勉強しかしなかった。なので、聞く・話す・書くという他の3技能はほとんど手つかずで・・・「書く」に関しては英作文対策などで一定の勉強をする場合も多いが、入試で出題される割合は「読む」に比べて、圧倒的に少ない・・・、中学、高校と英語を勉強しても、実際の場面で使える英語は身につかなかった。

 そこで、こうした大学入試で問われる技能の偏りを改め、実際に役立つ英語力を判定しよう、ひいては学生を、実際に役立つ英語の勉強に向かわせようということだ。大学入試というものは、何だかんだと、学生の勉強の方向性を最も決定づけるものなので、その大学入試が変わる意義は非常に大きい。今回の改定案は大いに歓迎だ。

 しかし、これまで実用英語の習得を阻害してきたものは、技能の偏りだけだったのかと言うと、そうではない。実はもっと深い根本的な問題があったと、私は思っている。それは大学入試が、一般的でない例外的に難しいことを中心に問うてきた、ということだ。

 例外的に難しいことを問うとは、一般的とは言えない構造の複雑な英文の解釈を求めるとか、実際には使う頻度の低い特殊な語句の意味をストレートに問うとかだ。問うている英文そのものはごく普通でも、あるいは英文全体の主旨を問う一見良質な問題でも、設問の選択肢をあの手この手で複雑にして、結局難解にしてしまう問題も、同じ範疇と考えられる。

 時代を遡れば遡るほど、こうした問題が多く、実際私が受験生の頃(1980年代)、長文の内容は大体わかっているつもりなんだけど、設問のところに限ってわからないなあ、という思いをよく持った。もちろんそれは、重要事項を忘れていた自らの失態のせいもあったが、今になってみれば、上述のような問題の性質によるものも多分にあったと思う。

 もちろん、全ての大学の全ての問題が、そうした例外的に難しいことばかりを問うているわけではないが、少なくとも私立大の大半の入試問題は、このような類のものだったと言える(国立大も問題点がないわけではないが、比較的良質)。そうした問題が一部ならよいのだが、大半がそうだとなると、実用英語の習得を阻害する。

 本来長文問題は、全体の主旨がわかる、あるいは段落毎の主旨がわかることを判定する問題が主となるべきだが・・・それが長文における実用的な力を測ることになるはず・・・、そうしたことがわかっても、結局は、例外的に難しい部分の解釈が出来たり、使う頻度の低い難解な語句を覚えたり、不必要に複雑に仕立て上げた設問に対処する技を身につけたりしなければ、得点に結びつかないというなら、勉強の主眼は、文章の主旨をつかむことよりも、そうした些末なことの対策の方に置かれてしまう。

 そして実用という観点でさらに考えてみると、日常や仕事で英語を使う場合に必要とされるのは、例外的に難しい知識を知っていることではない。そうしたことを知ったとて、実際に使うことは稀だし、そうした知識は得てして、テストという特定の場面で、頭から必死で絞り出そうとすればようやく出てくるのが関の山で、実際に必要な時に、頭からさっと出てくるわけではない。むしろ必要なのは、普通のレベルのことが、安定的、継続的に使えるようになっていることだ。普通のレベルと言っても、単に知識として知っていればよいなら簡単かもしれないが、いつでも自在に使いこなせる状態になるには、それなりの訓練が要る。でも入試は、そういうことを問わないから、学生は勉強の多くの時間を、例外的に難しい知識の習得に費やすことになる。こうして実用英語の習得が阻害される。

 このように、入試が例外的に難しいことを問う背景には、英語という教科の位置づけが関係していたと思う。私が学生だった1980年代、そして90年代の大部分は、英語という教科の位置づけは、あくまでも知的訓練の題材で、実用面はほとんど問題にされなかった。英語力そのものを高めるというよりも、英語を利用して知性を鍛える、ということだった。識者の方たちも、実用英語など、必要な時に本気になって練習すれば簡単に身につくので、学校で行なう英語は知的訓練でよい、と言っていた。根本的にこんな考えだったので、入試が実用面などは考えず、難しいことばかりを問うのも、無理からぬことだった。

 そうした思想は、強弱の差はあれど、2000年頃までは続き、そして過渡期を経て、2007年頃に変化の兆しが表れ、徐々に、文章の大事な点が読み取れれば、かなりの得点ができる、従来とは違うタイプの入試が増えてきて、今に至っていると思う。

 ちなみにこうした変化をはっきり意識したのは、最近のセンター試験の変化がきっかけだった。センター試験は、2003年に急に易しくなり、その後も年を追う毎に徐々に易しくなっていると思う(逆に分量は増えているが)。当初は、レベルと分量の変化だけを意識していたのだが、その後それだけではない何かが変わっていくのを感じた(初めは、上手く言葉にできなかったが)。それが上で述べた、例外的に難しいことを問うことがなくなった、ということだ。

 センター試験でも、やはり長文の中に、一部特に解釈の難しい箇所があって、全体の主旨がわかっていても、その箇所が正確にわからなければ解けない問題があった(他の入試に比べて、圧倒的にその割合は少なかったが)。でも2007年頃から、そうした問題は徐々に減り、2012年にはついにそうした問題は姿を消し、ほぼ全てが、文章全体の主旨や段落の主旨がわかれば解ける問題となったのだ(当時のブログにも書いている)。

 最近TOEFLの問題を見たことも、そうしたテストの質の違いを意識するきっかけとなった(実際に受験したわけではないが)。TOEFLの問題(ここで話題にするのはReadingのみ)は、噂通り難しかった。では何が難しいのかと問われると、これがなかなか言いづらい。語彙レベルは高いが、極端に難しいものがゴロゴロ出ているわけではないし、文法的に難しい箇所は皆無と言ってよく、ごく普通の分詞構文や関係詞が使われているくらいだ。そして一番気になったのが、上で述べてきたような、特にここが難しいという特定の箇所がなく、全体的に難しいということだ。

 では改めて何が難しいのかと言うと、英文の内容が高度で、情報量も多いので、とにかく実力がないと、頭の回転が追いつかず、時間内に情報処理がしきれない、ということだろうか。このように、特に難しい箇所がなく、全体的に難しいというのは、新鮮な感覚だったが、問題としては高度でも、特に例外的に難しいことを問うわけではなく、全体的に英文の意味をきちんと理解できさえすれば、つまり実力さえあれば得点できるという、こうしたテストを、日本の入試もまねるべきではないかと思った。

 上述のように数年前から、そうした入試が増えてきている。でも、まだ十分な変化が起こったとは言えないし、相変わらず旧態依然の出題をしている大学も少なくない。 6年後には、「読む」だけではなく4技能を全て測定するという、大きな変化が起きるようだが、その前の、入試が「読む」ことしか問わない段階であっても、王道を行く勉強をしていればきちんと報われるような入試が、もっともっと増えてほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月30日 (火)

情報過多の時代における家庭教師の役割

 英語を教えている私も、もちろん英語の疑問点を調べることがある。最近は専らネットで調べることが多いが、本当に情報が豊富で、ほぼ全ての疑問が、ネットで片付いてしまうと言ってもいい。

 文法の解説など、英語そのものについての情報はもちろん、お薦めの教材、お薦めの勉強法、自らの体験記など、ありとあらゆる情報があふれている。ネットだけでもこれだけの情報が揃えば、あえて誰かに英語を習う必要はなくなってくるのではないか、ましてや、費用のかかる家庭教師に習う必要はなくなってくるのではないか、などと私の立場では不安を感じたりする。

 では、家庭教師は不要になるかと言うと、需要は減るかもしれないが、なくなることはないだろう。情報が豊富にあると言っても、それを生かして自ら勉強ができるためには、それなりの世界観が確立していなければならず、それを確立するには、やはり人による対面指導が必要だと思うからだ。

 ここで言う世界観を明確に言葉で説明するのは難しいのだが、・・・だからこそ人による対面指導が必要なのだ・・・一言で言えば、おぼろげながらでも全体像がつかめているという感覚、もう少し言えば、これから未知のことを勉強していくにしても、やるべき事の見当がつく、進むべき方向はこちらだと感じられる感覚、といったことになるだろうか。

 ちなみにこうした感覚は、一定量の知識が、体系的、有機的に結びついて起こる、脳内変化によるものと言える。なので何を勉強するかといった、勉強の内容・題材というよりも、とにかく脳内変化が起こるまで、継続的に脳に適度な負荷をかけ続ける、といったことが重要だ。そしてこうした指導は、ここを読んでおいてね、というような指示で済ますことはできない。つまり、情報として伝えられる類のものではなく、まさに、対面指導の出番なのだ。

 では、その必要な世界観が確立していれば、対面の指導は不要かと言えば、まあ不要と言っていいかもしれない。ただそれでも、情報の選択係など、家庭教師の役割はある。現在はとにかく情報過多の時代なので、多くの情報に接することはできても、今の自分にとって最適な情報はどれなのか、という判断は意外と難しい。あるいは判断ができても、時間がかかって非効率ということもある。問題集選び一つとっても、今はものすごい数があるので、途方に暮れたりする(と、以前社会人の生徒が言っていた)。こうしたことも含め、生徒の状況を的確に判断した上で、最適な情報が提示されれば、勉強の効率アップにつながる。

 ペースメーカーとしての役割もありそうだ。定期的に授業を行なうことで、必然的に勉強に向かうようになるといった効果はもちろん、そのくらい定着したのなら先に進むべき、その程度の理解なら立ち止まってもっと復習すべき、などの指摘もできる。

 やる気を出させること、モチベーションの維持も、もちろん重要な仕事で(一番重要と言っていい)、これこそ、ここを読んでおいてね、といった指導では不可能なことだ。

 と、このように、情報過多の時代においても、どうやら対面指導の家庭教師の出番はありそうだ。そう言えば、以前ある知識人が、「教育とは情報として伝えられないことをつかませることだ」と言っていた(と記憶している)。実に名言で、これをすることこそ、教師の存在意義だと思っている。そして、英語110番を開設してからは、そのことを肝に銘じて授業を行なってきたつもりだ。情報があふれる時代になっても、いやむしろ、そういう時代だからこそ、そのことの重要性は高まっている。今後もその名言を胸に、授業を行なっていきたい・・・と宣言して、満4年目のブログ記事を締めくくろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月31日 (木)

学力の二極化

 最近、学力低下に加えて、学力の二極化という問題をよく耳にする。できる人とできない人に二分され、中間層が減っているということだが、その中間層ができない側に回ってしまっていることが、特に問題視されている。

 この記事で扱っている学力の二極化は、主に私が仕事で接している生徒を念頭に置いたものなので 世間一般で言われているものよりも限定的かもしれないが、その原因の一つは、勉強が淡泊になってしまったこと、言いかえれば、できない人もできる人の勉強法をとるようになってしまったことだと思っている。

 この話を進めるにはまず、人には生まれ持った能力差があるという前提に立つ必要がある。あまり認めたくない話かもしれないが、現に、同じことを習得するにも、すぐできてしまう生徒もいるし、なかなかできない生徒もいる。私だって、他の人が難なく習得できたことを、苦労して習得したという経験を多くしている。やはり能力差はあると言わざるを得ない。

 ちなみにできる人の勉強法は、難問の上手い解法とか、入試過去問を含め、実戦的な問題をこなした分量などが、クローズアップされがちだ。単語や文法などの基本事項をこうやって必死に暗記しました、という声はあまり聞こえてこない。それは恐らく、できる人にとっては、そうした基本の暗記は苦労なくできてしまうか、あるいは、実戦問題をこなしながら上手く覚えるべきことも覚えていて、特に意識して何かを覚えたという感覚がないからではないかと思っている。

 ここで確認しておきたいのは、基本事項を暗記していないなら、実戦的な問題を行なっても意味がないということと、できる人は、意識的に暗記をした感覚がないにしても、覚えるべきことは覚えているということだ。これらのことを考慮せず、できない人が、できる人の表面的なことだけをとらえて、基本の暗記がままならないのに難問の解法を学んでも、あるいは、よくわからないまま過去問の数だけをこなしても意味はない。

 やはりできない人は、より正確に言えば、基本事項が暗記できていない人は、実戦問題には目もくれず(実戦問題と並行してでももちろんよいが)、そうしたことの暗記を徹底的に行なうべきなのだ。もちろん暗記できるまで。

 ところが時代が進むとともに、覚えるべきことは徹底して覚えるという骨太の勉強をする人が、だんだん減っている気がする。さらに言えば、ちょっと前までは、そうした勉強をしていないにしても、意志が弱くてできないだけで、大半の人はやらなければいけないのは分かっていたはずなのだが、今では、そもそも意識的に何かを覚えようという意思が希薄になっている、あるいはそうした世界観がなくなっている感がある。

 なぜこうしたことが起こったのだろうか。暗記に耐えうる忍耐力がなくなったのか、そしてそれゆえ、泥臭い勉強法ではなく、スマートで洗練された勉強法に飛びつきたくなるのか、面白い刺激的な情報があふれるようになり、元々面白味のない暗記作業が一層面白くなくなったのか、それとも自ら、暗記はできていると勘違いしているのか、色々と考えてみるが、はっきりしない。

 もちろん、ウチの生徒などを見ていても、まるで暗記をしない訳ではない。単語テスト等で、必要な暗記は課しているが、大体それはきちんとこなしてくれる。実は今の生徒は、総じて真面目になっているので、以前よりもむしろ指示にはよく従ってくれるくらいだ。ところが、例えば単語テストのついでに、以前覚えた単語を抜き打ちでチェックし、結構忘れていることが明らかになった場合、昔であれば、「あ、やばい、こんなに忘れているとは思わなかった、もっと復習にも力を入れます」みたいな反応が返ってきたものだが、今は「・・・」(無反応)とか、ただ一言「頑張ります」とか(何をどう頑張るのだ、とツッコみたくなる)、言葉には出さないものの、指定した範囲のテストはちゃんとできましたけど、みたいに、事の重大性を認識していない(orできない?)ような反応が返ってくる。このような意識では、本当の意味での暗記はできず、結局、意識改革が、問題解決の一番のポイントとなるのかもしれない。

 昔は英語の勉強と言えば、それはイコール暗記だった。教師に言われるまでもなく、生徒は皆そういう認識だった。覚えるべきことは、何度も反復してとことん覚えた。友達と暗記を競いあったりもした。とにかく暗記への意気込みが今とは違っていた。

 今の生徒も、昔のような勢いで暗記をすれば、もっと英語力があがるのに、と思える事例は結構ある。そもそも真面目に勉強をしているのに、最も大事なこと(つまり暗記)を軽視するなんてもったいない。

 とは言え、ウチの生徒を見ていても、根本的な意識改革はそう簡単ではない。でも真面目に勉強はしてくれるわけで、例えば単語で復習すべきことをズバリ指定したり、復習のサイクルを提示したりしながら、形式的でもよいから、以前のことも含めて暗記をするように仕向け、最終的には、自ら本当の意味での暗記の重要性を意識するに至り、それに基づいて自ら勉強してくれるようになってもらいたいと思っている。

 そして、何かの縁でこの記事を読み、思い当たる節がある方は、ぜひ本当の意味での暗記をしていただきたい。学力の二極化で、わざわざできない側に回らないためにも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月31日 (金)

やはり、センター試験を見習おう

 毎年1月のブログ記事は(13年12年11年)、センター試験のことを書いてきたが、ここ数年問題の質は大体一定で、多少の変化はあるものの、特筆すべき大きな変化はない。なので今年はもう、センター試験のことを書くのはやめようかと思ったが、年に一度の受験的には大きなイベントだし、やはり触れることにした。

 今年のセンター試験では、第3問Bで、パラグラフから取り除いた方がよい文を選ばせるという、新しい形式の問題が出た。が、特に難しいということはなく、全体的に見れば、難易度も分量も大体昨年並みと言える。

 ただ昨年も考察したのだが、形式には表れない微妙な変化がいくつか感じられた。そもそも全体的な印象を昨年との比較で言うと、昨年が、素早い情報処理力がないと、本文自体が読み進めにくいが、読めさえすれば設問は解きやすい、といったものだったのに対して、今年は、文章自体は去年より読みやすいが、設問の巧みさで点数が調整されているような気がする。

 例えば、第4問Aの問4では、英文の最終段落の内容ではなく、最終段落の後に来そうな内容を聞いていて、引っかかりやすいし、第4問Bの問1では、年齢制限がいつの時点のものかに気づかなければ、迷わしくなってしまうし、第6問Aの問4では、background noiseという、いかにものキーワードに目を奪われると、間違えやすい。

 以上のような問題は、引っかけ問題とは全然言えないが、なかなか上手くできていて、今年は英文が読みやすくなったのに、平均点が昨年と比べてほんの少し下がりそうなのは、こうした問題のせいではないかと、私は思っている。

 ということで、今年のセンター試験の英語の問題は、昨年の直球勝負に対して、若干変化球勝負という感じがするが、それでもやはりセンター試験はよい問題だろう。

 よい入試問題の定義は色々とあるが、突き詰めれば、英語の実力をきちんと判定できることだ。この点で、センター試験はまず分量が多く、そもそも地道な勉強で身につけた真の実力がないと、頭の回転がついてこず、全ての問題をやり通せない。問題が易しいとは言え、小手先のテクニックでは得点に限界があり、実力がきちんと測れる良問と言えるだろう。もっとも今は、他の入試でも長文化傾向が進み、分量の多さは、センター試験独特のものではなくなったが・・・

 些末な知識を問う問題がないのもよい。そもそも特定の知識を問う第2問Aなどを別として(それでも些末なものは問われないが)、読解問題では、特に難しい箇所の解釈を求めるとか、特定の難しい知識を要求するような問題ではなく、段落や文章全体の主旨を問う問題がほとんどだ。このことは、問題の意図の良質さもさることながら、ある1つの知識がないために致命傷を負うということがなく、その知識の不足を、他の知識の運用力でカバーできれば ――― 現実の場面でも、そうやってしのいでいる状況は多い ―――、必ずしも失点につながらない、つまり知識の有無のみで点が決まらないという面でも良質だ(もちろん知識は大事だが)。

 一方で、時代が進むにつれて、大学入試問題は総じて良質化してきたように思うが、それでもまだ私立大を中心に、些末な知識を聞いてきたり、問題の意図が不明瞭だったりと、これで英語の実力が問えるのだろうか、と思える問題が見られる ――― いずれ機会があれば、具体的に述べていきたいと思うが。

 入試というものは、本来選抜のためのものだ。なので受験者間で差がつかなければならない。でも、実力を反映しない問題によって差がつけられるのでは、公平ではない。入試の作問者はその点を大いに考えてもらいたい。

 それ以上に入試というものは、現実的に、日本の学生の勉強の方向性を決めると言ってよい。入試で些末なことを聞けば、学生に些末なことへの対策に時間をかけさせることになる。だから入試問題の質というものは非常に重要だ。私はセンター試験を絶対視しているわけではないが、やはり問題の質やバランスがよいので、各大学のレベルに応じて難易度は変えるにしても、問題を良質化するためには、センター試験の作りは、参考にすべきものではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

その他 | 教育 | 日々の授業 | 社会