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2015年11月30日 (月)

他者の評価よりも、自分の「思い」

 NHK Eテレの、テストの花道という番組がある。名の通り、主にテストで点を上げるための勉強法を教えるものだ。見方によっては、やや型にはめて、単純化しすぎているきらいもあるが、一見つかみどころがないと思われることでも、目のつけどころや、何をすべきかをはっきり示してくれるので、実戦的で分かりやすい。

 総じてよい番組だとは思うのだが、先日ちょっと気になることがあった。その日の放送は、文章の書き方を扱っており、自分ならではの観点を持とう、ということがポイントだった。実際にはまずは何人かの高校生に、「私のふるさとのすばらしさ」というテーマで、400字で自由に書いてもらい、それに対して、作文指導の先生やエッセイストの人が評価をする、という構成だ。

 残念ながら、その作文がどうしても思い出せず、ここで提示することができないのだが・・・NHKのHPに掲載されているかなと思ったけど、なかった・・・、私の第一印象としては、素朴で、ほのぼのしていて、まあまあいい文なのでは、と思った。

 ただ作文の出来云々よりも、印象に残っているのは、先生方の評価のコメントだ。やれ、「小学生の作文みたい」だの、「そんなことは実際に体験したことがない人でも書ける」だの、「中身が薄っぺらい」だの、挙句の果てには「郷土愛を感じない」だの、ダメ出しの嵐。番組構成上、インパクトを与えるためなのかもしれないが・・・それにしても、最近のテレビ番組は、あからさまに相手をディスる(若者言葉、使ってみました)ものが多い・・・、授業に関しては厳しく行なう私でも、生徒に同情してしまうくらいだった。

 言われてみれば、先生方の評価もごもっともで、生徒の作文に改善の余地はあった。でもここで問題なのは、生徒の「思い」にまで評価を下そうとしていたことだ。確かに、生徒の作文に拙さはあったが、少なくとも本音で書かれていたとは思われた。だから、その本当の「思い」のより効果的な表現法を助言するならともかく、その「思い」自体を、他者がとやかく言う筋合いはないはずなのだ。

 ちなみに私も、受験指導をする立場として、生徒にダメ出しをすることもあるし、特定の考え方に仕向けることもある。でも生徒の「思い」に対して、とやかく言っているつもりはない。それどころかむしろ、数年前から、本音が聞けなくて困惑してしまう。ここで当てはまる法則は何だっけ?みたいな質問には、生徒は躊躇なく答えるものの、長文の内容に関して、この話あなたはどう思う?と聞くと、戸惑いを見せる。また、長文問題を初見で解いた時の自らの感触なども、答えづらいようだ。

 日本の若者は(最近は大人もだが)、自分の意見を言わないとよく言われるが、それは上のような、自分の「思い」を否定されることが、大きく影響しているのだと思う。もっとも、ここで話題にしたテレビ番組だけを批判しているのでは全然ない。のんびりした雰囲気で見ていた時に、あまりにも激しいツッコミがあり、それが強く印象に残ったので、話の切り口として利用させていただいただけで、こうしたツッコミは、程度の差こそあれ、日本の至るところで・・・学校で、塾で、友達同士で、家庭で・・・行なわれているように思う。

 結構前から日本では、個性を生かそうという教育方針になっているはずなのに、未だに、思ったことを言うことが奨励されない。だから日本の大多数の人は、自分の意見を考えるよりも、空気を読んで、その場にふさわしい意見を考える方に力を注ぐ。

 本音が言えない教育をずっと受けてきたら、そうした人が育ってしまうのは当然だが、一方で就職してからは急に、変化の激しい、グローバルの時代、より個性的な発想が必要だ、などと言われる。酷な話だが、現代は確かにグローバルの時代。実際に個性的な発想は求められる。ただそれよりも前に、グローバルなコミュニケーション、つまり思ったことをはっきり言うことが必要だ。

 と言いながらも、これまでの経緯を考えると、今後も、教育現場での、いや日本全体での、思ったことを言うことが奨励されない空気は、あまり変わらない気がする。だから、とりわけグローバルに活躍したい学生諸君は、周囲の人の受けがよさそうな意見を言う一方で、揺るぎない自分の意見を常に持ち合わせておく、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 さて冒頭の、文章を書くことに話を戻すと、情報発信の盛んな現代、文章を書く力は絶対にあった方がいい。もちろん、自分の「思い」がこもった文を、だ。確かに学生時代は、入試の小論文を始め、他者の何らかの基準に則って、評価がなされる中書くことが多いだろう。だから、自分の「思い」というよりも、評価が高そうなことを優先して書くこともやむを得ないと思う。でも将来的に必要になるのは、そつのない優等生的な文が書けることよりも、やはり自分の「思い」がしっかり表れている文が書けることだ。学校を卒業した後に文章を書くのは、もはや試験の時ではなく、実際に言いたいことがある時だろうから、その言いたいことがしっかり表れているかが、価値基準となる。というわけで文章に関しても、学生諸君は、他者の評価が高そうな文章を書くにしても、自分の意見もしっかりと持ち、できたら そちらも表現をしてみる、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 ちなみに私自身、文章を書くのは苦手で、自分の書いたものを読み直すと、色々と気になるところがあるが、中でも一番気になるのが、自分の頭の中にある思いや考えに比べて、書かれた文章は、どうもスケールダウンしているように思えることだ。つまり自分の「思い」がしっかり表れていないのだ。修行しなければ。

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