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2014年11月30日 (日)

和訳は不要?

 昔、私が高校生だった1980年代や90年代は、学校の授業は受験には役立たないと言われていた。それが徐々に学校でも、受験を意識した授業を行なうようになってきた。学校教育的な是非はあるかもしれないが、受験生にとっては有難いことだろう。でも最近それが行き過ぎて、むしろ受験に逆効果なのではないかと思える例に出くわす。

 その端的な例は、和訳をしないことだ。現在ウチには、学校の読解の授業で、和訳をしていない(させられていない)という生徒(高1生、高2生)が複数いる。

 では読解の授業で何をしているのかと聞くと、音読や、文構造や内容的なポイントを、ごく簡単に口頭で解説するとのこと。和訳や新出単語の意味は、各授業後、場合によっては定期テストの前にまとめて、プリントとして配布されるらしい。

 さらに私としては、和訳をしないことが不思議なので、なぜ和訳をしないか、学校の先生は何か言っていたかと聞くと、分からないという生徒もいたが、早くから実戦を意識しているかららしい、という生徒もいた。入試では大量の英文を素早く読んで、主旨をつかまなければならず、じっくり和訳している時間はない。だから和訳しないでも理解できる力を早期から養う、ということのようだ。

 確かにそれはもっともな話で、私も最終的にはそうしたことを目指して、指導をしている。ただあくまでも、最終的に、そして臨機応変にということだ。もちろん受験学年の高3は、和訳なしの理解を特に重視する。が、それでも生徒の読み方が雑ならば、和訳の作業を増やして、読み方を修正したりもする。

 ましてや高1、高2では、アウトプット(既に持っている知識の運用)よりも、インプット(新しい知識の習得)の方を重視しなければならない。だからまずは本番を意識して、素早く英文を読んで主旨をつかむ練習をするにしても、その後は、きちんと和訳をさせ、知らなかった単語もリストアップして、暗記をしてもらう。

 そもそも学校の読解の教科書は、新しい課に入ると、結構な数の新出単語や、未習の文法事項を含む英文を読まなければならない。そうした英文に対して、和訳をしないで、素早く意味を取ろうとするのは非常に困難だし、勉強として効果的でない。本来そうした読み方を主目的とするなら、これまでに習った単語や文法で十分読めるはず、という教材で行なうべきだ。未知のことを多く含む英文に、さらっと読むような軽い接し方をするのでは、新しい知識も身についていかない。

 やはり、新出単語は自ら辞書などで調べ、さらには、辞書の表記通りではない、その英文に最適な訳語を、自ら頭をひねって考えたり、未習の文法事項も、参考書で調べ、自分なりの見当をつけるなどして、きちんと和訳をすべきだ。そして間違えていたところを授業で修正し、その後、せっかく身につけたことを忘れないために、そして、じっくり考えなければ分からなかったことが、今度は素早く分かるようになるために、何度も音読をするのだ。

 というように、単語調べ一つとっても、色々考えることがあり、意外と悪戦苦闘する。上述の学校の授業の例では、意味も載せた新出単語の一覧を配布してしまうとのことだが(和訳をしないことよりも、実はこのことの方が重大な問題)、これでは、貴重な悪戦苦闘の経験を奪ってしまい、苦労がない分、その後単語は記憶に残りにくくなる。そして、音読にしても、本来最も効果があるのは、自ら悪戦苦闘して意味をつかんだものを読む場合であって、しっかり解説がなされておらず、十分に理解しきれていない英文を音読しても、効果は薄いのだ。

 近年ますます、実戦で役立つ英語を身につけることが求められている。そうなると必ずやり玉にあがるのが和訳だ。実際に英語を使う場面では、素早く対処しなければならないのだから、和訳などしている暇はないとか、後からの修飾なども、前からどんどん理解できるようにならなければ、特にリスニングでついていけなくなる、などがその理由だ。

 確かにその通りだが、実戦力を目標とするにしても、そこに至る過程の勉強が、常に実戦的である必要はない。速読が求められるからと言って、常に速読にこだわった勉強だけをしていたら、読みが雑になり、対処できる英語のレベルが上がっていかない。だから、時には和訳などをしながら、じっくり読むことも必要だ。

 大体和訳というものは、訳すことだけが目的なのではない。和訳は緻密な作業だから、それを行なうことによって、今まで何となく分かっていたつもりのことも、実はよく分かっていなかったことに気づいたりする。そうした経験が、新たな学びのきっかけとなり、英語力を一歩高めていくのだ。

 もちろん、和訳しかしないとか、意味が分かった後でさえも、日本語の表現の工夫に過度にこだわる、といったことは問題だが、適切なタイミングで、適切な分量を行なえば、和訳は、実戦力をつけるための重要な作業となるだろう。

 受験においては、当然実戦力は必要だ。速読力もなければいけないし、設問の解法のコツも知っておくべきだろう。ただそれよりも前に、骨太の実力が必要だ。言いかえれば、実感として分かるという感覚、しっくりくる感覚がなければならない。そうした力を養うには、自ら単語を調べて、悪戦苦闘しながら和訳をする、という作業は非常に有益だと思う。何か英語がしっくりこないあなた、ぜひ和訳をしてみよう。

 ちなみに、昨年(2013年)の高1生から、英語という科目名が、コミュニケーション英語という名に変わった。その名の通り、コミュニケーション能力を養う(読解力だけでなく、意見を発信する力も養う)ことを目指すようだが、教科書を見る限り、読解を中心に行なうと考えてよいのだろう。

 そうした変化もあって、もしや新しい学習指導要領に、和訳はさせないように、とでも書いてあるのかと思い、確認してみると、「訳読や和文英訳、文法指導が中心とならないよう留意し」とはあったが、禁止という文言は見当たらなかった。見方を変えれば、訳読が中心でなければ、和訳をしてもよいと解釈できる。これは、遠回しな言い方でお墨付きをもらったのだと判断し、今後も私は、適切な形での和訳指導を続けたいと思う。

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