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2013年8月31日 (土)

寛大さに救われる

 これと言う特定の理由があったわけでないが、私は高1、高2の時にやる気をなくし、ほぼ全く勉強しなかった。高3になって、ひょんなことから(と言っても、理由を明確に挙げるのは難しいのだが)勉強をし出し、そして1年の浪人を経て、何とか大学に受かったのだ。

 ちなみに、勉強をしなかった高1、高2の時は、どう過ごしていたかと言うと、とても楽しくとまでは言わないが、特に悲嘆に暮れていたわけではなく、ごく普通に過ごしていた。これは、親、先生、友達が、私を放任してくれたおかげだ。とにかく周囲の人は誰も、勉強しろとはほとんど言わなかった。

 親は、私が中学の時までは比較的うるさかったが、高校生になったら、もう言って聞かせようとしても無理だと思ったのか、何も言わなくなった。先生に関してだが、当時(約30年前)の私の高校(神奈川の某県立高校)の先生は、悪く言えばいい加減(失礼!)、良く言えば大らか、放任、生徒の自主性に任せるという感じで、私が勉強しないことに関して、特にうるさくは言わなかった。小言くらいは言うものの、ひどく責めるわけではなく、蔑むわけでもなく、また無言の圧力をかけるわけでもなかった。もちろん高校なので進級の問題があり、赤点の課題などはしっかり行なうよう求められたが。友達も「しょうがないヤツだ」とか「もう少し勉強しろよ」くらいは言うものの、勉強するしないは本人の問題だというスタンスで、少なくとも、私が勉強をしない、成績が悪いということで、人格まで否定するようなことはなかった。ちなみに私は高2にもなると、成績が悪いことを自分からネタにするようになっていて、私の成績の悪さは校内では結構有名だった。なので、他のクラスのそれほど面識のない生徒も、私のところにテストの点を確認しに来ることさえあった。私に負けてはヤバいので、私より点がいいかどうかを確認しにくるわけだ。幸い(?)ほぼ毎回私が負けるので、皆ホッとして帰っていったが。

 と、このように、昔の周囲の人の寛大さのおかげで、高校もそれほど居心地の悪い場とはならず、私も腐らずに済んだ。今になって振り返ると、これは非常にありがたいことだった。高3になってからは、さすがにこれではいけないと思い、今までの分を補うかのごとく、必死に勉強したが、そのパワーが生み出せたのは、勉強しなかった高1、高2の時も、あまり思い悩まずに過ごせて、精神が無駄に疲弊しなかったからだと思えるのだ。実際当時の私のやる気のなさは、なかなか凄いものだったので、やる気がない時にあれこれ言われても、事態が余計悪化しただけだったと思う。

 翻って現代の社会は、高度に情報化が進み、徹底した管理、評価が求められる、気の抜けないものとなった。学校という組織もそうした社会の影響を免れないようだ。もう昔のような寛大さを求めるのは無理なのかもしれない。でも長い人生、どこかでやる気をなくすこともある。そうした時期がちょっとあるだけで、何もかもダメになるという事態は、せめて学校では起こらないようにと願うばかりだ。また現代は、生徒の側でも、正規の道を逸れてはいけないという、心理的な圧力が強まっている気がするが、実は逸れたとしても、その気になれば何とでもなるものなので、そうした大らかな気持ちを持っておくことも、現代を生き抜くコツだと思う。

 かく言う私の今の家庭教師という仕事は、学校の成績を上げる、入試に向けた実力をつける、という明確な目標に対応しなければならず、上述のような寛大さを発揮するのは難しい。結局私も、気の抜けない現代社会に加担しているではないか、というジレンマを感じる。

 でも一方で、やる気がない時に勉強しても成果は出ない、本来のカリキュラムから逸れても復活は可能、ただし相当な努力が必要、といったせっかくの自らの体験で身にしみてわかったことを、はっきり伝えるのも、今の私の立場では必要なことだと思うので、それはそれでしっかり行なっていきたい。

 根本的なジレンマの解消は、ずっと先になるだろうか。

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