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2012年6月29日 (金)

自分が認識できなければ、真の勉強はできない

 ある生徒が、3日もあれば単語1000個くらいは覚えられそうだ、と言った。この生徒には1週間で、単語を50~100個覚えてもらってテストをする課題を出していた。毎回のテストの出来はまずまずで、それが何回か繰り返されるうちに、気持ちも高まり、3日もあれば単語集の残り全部(それが約1000個というわけ)が覚えられるのではないか、という気になったようなのだ。

 単語をどんどん覚えていこうという気持ちになったのは、もちろんよいことなのだが、それにしても、3日で1000個は無謀で、こんなペースで単語が覚えられたら、誰も英語の習得で苦労はしないはずなのだ。生徒にもこのことは説いたが、意地もあったのか、とにかくやって見せますとのことだった。私の方も、意地でもやめさせたい気持ちもあったが(やはり無謀なので)、単語1000個を覚えるのがいかに大変かを、身にしみてわかってもらうのも有意義かと思い、実際やってもらうことにした。

 そして3日後、どうなったか? 単語の覚え具合がどうという以前に、単語集に最後まで目を通すことさえ叶わなかったようだ。私からすれば、これは全くもって予想通りなのだが、残念だったのは、せっかくこうした機会があったのに、単語1000個を覚えるのがいかに大変かを、学ばなかったということだ。3日で1000個覚えるなんて、簡単に出来ることではないでしょ、と生徒に言っても、もう少し時間があれば覚えられそうだ、といったことを言い、ではあとどのくらい時間があれば覚えらえるのかと問うと、言葉を濁すといったように、とにかく今の現実を受けとめなかったのだ。

 3日で単語を1000個覚えると言ったのに覚えられなかった、というのは極端な例だが、このように言動が一致していない、さらに言えば、言動が一致していないことに気づいていない生徒は、意外と多く目にする。でも自分を正しく認識するということは、真に学力を上げる勉強には欠かせない。この認識が、勉強を正しい方向に向かわせる働きをするのだ。例えば、やると言ったことが出来なかったと認識するからこそ、自分にとっての適切な分量がわかるのだし、出来ているはずのことが出来ていないと認識するからこそ、勉強法を改善しようという意識が出てくるのだし、以前やったものを忘れていると認識するからこそ、復習をしようかという発想が生まれるのだ。

 こうした認識をしない人の勉強は、得てして形だけのものになりがちだ。例えば、問題集を解いたということだけで満足し、その作業によって、何かを覚えたのかと聞いても、わからないとなったり、何かを理解したのかと聞いても、微妙だとなったり、一体何が学べたのか、という勉強になってしまう。当然こうした勉強では、効果はないわけで、どの教材を使うかとか、どこの塾に行くかといったことの前に、まずは意識改革、とりわけ自分を認識するということが必要なのだ。

 ちなみに上述の生徒は、粘り強く意識改革を促したこともあり、今では、単語の確認テストで、点数が振るわなければ悔しがり、総点がよくても、特に力を入れて練習したものが出来ていなかったら、よしとせずに復習を強化するなど、一段上の意識で勉強をしている。その調子で、頑張り続けてもらいたい。

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