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2012年5月31日 (木)

登山から学ぶ哲学

 久しぶりに教育以外の話。

 私の趣味の一つに登山がある。なぜ登山をするのか? 実感に即して言えば、自然の中に身を置くと気持ちいいから、達成感が味わえるから、スリルが楽しいから、などということになる。本来理屈がどうということではない。
 が、登山のよさをあえて哲学的に考えてみると、幸せを感じるハードルが下げられる、ということがある。

 登山というものは、ロッククライミングのような特殊なものを除けば、基本的にやることは歩くということだけ。歩くだけで、素晴らしい感動が味わえるのだから、そもそも幸せを感じるハードルは低い。
 そして、山では、水が飲めるだけで嬉しいし(登山中は大量の汗をかくので、体が水を欲する状態になっているし、山では水が簡単に手に入らない)、山頂でただボーッと景色を眺めているだけで幸せだ(それまでの苦労があるから)。
 さらには、山から帰ってきても、小さなことで感動できる。水道の蛇口をひねるだけで水が飲めることに感動するし、夜をこんなに明るく過ごせることに感動するし、テント泊の登山から帰ってくると、濡れずに、そして水平に寝られるだけでも感動する(テントは完全防水ではないし、テントを張るところも意外とでこぼこ)。

 このように、小さなことで感動できるようにする、つまり幸せを感じるハードルを下げることは、私のような凡人が、現代をうまく生きるコツではないかと思っている。そしてこのことは、人間の脳の性質に照らしても、理にかなっているようだ(ちょっと唐突かもしれないが)。

 ある本で読んだのだが、人間の脳の基本的な性質は、常に新しい刺激を求めることだそうだ。実際自分の実感としても、確かにそうなのだろうなと思える。でも、総体の人間として、脳の性質に従って、常に新しい刺激を求めて生きていくのでは、体が(そして当の脳自体も)もたないのではないだろうか。

 現在、日本のような先進社会では、技術の進歩が凄く、次々に新しいもの(つまり新しい刺激)が生まれている。携帯電話一つとっても、一昔前は通話機能だけだったのが(とは言え当初、家の外でも自由に電話ができるのは、十分画期的なことだった)、メールができるようになり、写真や動画も撮れるようになり、音楽も聞けるようになった。そして今や世界中の情報に自在にアクセスできるし、ショッピングもできるし、街中で自分がどこにいるのかまでわかるようになっている。
 考えてみれば、本当に凄いことだが、恐らくほとんどの人は(かくいう私もだが)、そうした機能を特に凄いと意識することもなく、当たり前のように利用しているだろう。でも、ここまで凄いレベルに達し、今後もただひたすら新しい刺激を求めていくのは、何か健全でない気がする。

 結局次々に新しい刺激に接しても、恐らくは次々にそれに慣れてしまうはずなのだ。だから刺激の要因を、技術の凄さなど外的なものだけに求めるのではなく、我々人間側が、必ずしも新しい刺激でなくても、感動を味わえるように心の持ちようを変える、つまり幸せを感じるハードルを下げるのが賢明だ。

 私は登山をしているから、常にそうした気持ちでいるのかというと、やはり私も文明社会にどっぷり浸かって生きているので、決してそんなことはない。でも登山に行くと、否応なしにそうしたことを考えさせれるし、行かなくとも、日常ふとした時に、当たり前と思っているものの凄さを再認識したりして、身近に幸せを感じられるようにしたいと思っている。

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