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2011年2月に作成された記事

2011年2月28日 (月)

京都大学・入試問題流出

 京都大学の入試問題流出、本当に驚きだが、冷静に考えてみると、そうしたことを、やろうと思えば出来る技術は整ってしまったのだから、起こるべくして起こった事件だとも思う。
 それにしても、疑問点が多い。なぜよりによって、京都大学という日本の最高峰の大学で起きたのか? 監督者がいる中、試験中にどうやって投稿したのか?(TVニュース等で言われているように、私も携帯のカメラで問題を撮って、第三者に送信したのだと思う) 試験監督は本当に厳正になされていたのか? 試験時間中に即、あの難問を解いて返信してきた人は一体何者なのか? なぜYahoo!知恵袋という、メジャーなシステムを使ったのか?
 一番気になる疑問は、このような行為をしたのは、合格するためなのか? とてもそうは思えない。合格が目的なら、多くの人目につくYahoo!知恵袋などは使わないだろうし、そんなものを使ったら送信者も特定されてしまうし(実際、警察の捜査も始まるから、いずれは特定されるだろうが)、返信された答えが合っている保障はないし(数学の答案は結構合っていたが、英語の答案は点にならないものだった、という話もある。やはり、英語の勉強はしっかりしておかないとダメなのだ!)、記号で答える問題ならともかく、京大のような記述問題で、試験時間中に、返信された答案を写すというのも難しいだろう。やはり、何か目立ちたい、あるいは世の中を騒がせたいという、愉快犯的な行動なのだと思う。

 Yahoo!知恵袋のようなメジャーなものが使われたことで、図らずも、試験時間中に、入試問題がネットに流出し、それに対して回答がなされることが、現実にあり得るということがはっきり示された。今後は入試を実施する側も、こうした事があり得る前提で、対策をしなければならなくなるだろう。悲しいけど、そこまではやり過ぎでは、という対策もしなければならなくなるかもしれない。
 今回の行為をした者は、もちろん厳正に対処されるべきだと思う。が、それにしても、京都大学が受験できるということは、センター試験でも結構得点できている(足きりのある学部もあるわけで)、力のある人のはず。その力をこんな事に使うのは、何とももったいないことだ。

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2011年2月26日 (土)

入試英語長文から学ぶ幸福論 その2

 前回の記事(2/12)で触れた、最近目にした、幸福論と言える内容の入試とは、09年慶応大・法の問題。話しの中心は、幸福の定義というものが難しい中、社会が市民の幸福をどう実現するか、ということだったが、前回取り上げた入試の内容と同じように、「選択肢の多さ」が招く問題点や、「慣れ」の問題が触れられていて、興味深かった。
 選べる選択肢が多いと、自分が選ばなかった選択肢に、もっとよい物があったのではと気になって、満足感が減る。また、新しい物を手に入れても、人間には慣れというものがあるので、喜びは長く続かない。そして、さらなる喜びを求めて、次の新しい物を手に入れる。でも、慣れてしまい喜びが薄れる。そして・・・という終わりのないサイクルが続く。とまあ、以上のようなことが書かれていた。
 さらには、最低限の富は必要だが、経済的に豊かになると、お金以外の要素がより重要になるので、問題解決にあたっては、経済の専門家の意見を求めるべきではない、とも書かれていた。

 今回取り上げた入試にも、前回取り上げた入試にも、どうすれば幸福になるか、という解決策は述べられていなかったが(そもそも簡単に解決する問題ではない)、幸福、特に豊かな社会における幸福の実現を考えた場合、やはり「選択肢の多さ」や「慣れ」に、どう対処するかということは、問題解決を考える際の、重要なポイントになると思う。
 そしてその際には、心理面などを含め、人間というものを総合的に考えるべきだろう。最近日本でも、経済のことがやけに重視され、幸福をとりわけお金と結びつけて考えることが多いが、経済は、人間の生活を構成する要素の一部にすぎない。
 ただ幸福というのは、社会的な問題でもあるが、個人的な要素が大きい。さしあたり、日本のような自由主義の社会では、全体としての社会が、物質的により便利になっていくのは避けられない。ということは選択肢も増える。なので、自らの満足は本当はどこにあるのかを考え、他に惑わされない強い意志を持つなど、個人的に折り合いをつけることが必要だろう。

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2011年2月12日 (土)

入試英語長文から学ぶ幸福論 その1

 05年筑波大入試の英語長文問題に、選択肢が増えると幸福感は減る、といったことが書かれていた。物が色々選べる、つまり選択肢が多い豊かな社会では、多くの選択肢と比較検討できてしまうがゆえに、自分は最善の選択をしたのか、という疑問が常につきまとい、気が滅入ってしまう、というものだった。
 これはまさに当時の(今もだが)私の状況を物語っていて、ネットショッピングなどをしていても、もっとよい物はないかと何度も検索し、これと決めても、今度は本当にここで買うのが一番安いのかを、何度も確かめ、へとへとになってしまうのは、自分だけではなかったんだと、この入試長文を、とても嬉しい気持ちで読んだのを覚えている。
 ちなみに、全く同じ長文が、05年の早稲田大・理工でも出されたが(両校を受けた受験生は、驚いたのではないだろうか)、国立大の、記述問題が主だが素直な出題と、私立大の、選択問題が主だがひねった出題とを、見比べるのにもうってつけだ。

 一方、04年早稲田大・政経の問題では、お金があっても、人は幸せになるとは限らない、といったことが書かれていた。経済的に豊かになって、物質的な生活水準が上昇しても、すぐにその状況に慣れてしまい、特にありがたみを感じることがなくなる、というものだった。
 これまた、当時の(いや結構前からの)私の思いが代弁されている感じで、大いに共感しながら、その長文を読んだ記憶がある。
 同時に、この頃から、大学入試の英語長文に、幸福論、特に豊かな社会における幸福論、といった内容が、出されるようになった気がする。
 入試英語長文の内容は、その時の社会の状況を反映しているものも多い。幸福論の登場も、社会に、お金や物だけでは解決できない問題が増えてきた、ということの表れではないだろうか。
 社会の状況を知るという観点で長文を読むのも、おもしろいことだと思うし、もちろん受験生にとっては、そうした内容をあらかじめ頭に入れておくことは、入試に向けた有効な英語の勉強となるだろう。

 ところで、なぜ今になって、このような昔の入試を話題にしたのか。それは、最近また、幸福論と言える内容の入試を目にし、以前考えたことが蘇ったから。最近目にした入試に関する話しは、また後日。

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