2018年5月31日 (木)

勉強法はよくても、前提が違っていないか?

 英語の勉強は、理解して覚えるだけではダメで、問題を何度も解き直したり、英文を何度も音読したりといった反復作業が必要だ。そうした反復作業で、理屈で何とか分かるものを、直感的に分かる域に高めて初めて実力がつくと言える。
 
 もっとも音読などの反復作業の重要性は随分前から言われていて、最近はそう声高に言わなくても皆さん結構やっているようなのだが、逆に最近気になるのは、「ただ」音読している、「ただ」問題を解いているという事例が多くなったことだ。
 
 例えば長文の音読はしているという生徒に、この段落の主旨は?、なぜ筆者はこう考えているの?、この単語の意味は?などと聞いても、ほとんど答えられない場合が結構ある。
 
 また文法問題集を何度も解き直しているという生徒に、なぜこれが答なの?、この問題のテーマは?、そもそも不定詞の用法の区別は?などと聞いても、やはり答えられない場合が多い。
 
 ちなみに音読というのは、まずは授業等で単語や文法や内容を学び、ひとまず分かったかなという英文に対して行うことに意味がある。理屈を介してやっと分かるという段階では、時間もかかって入試等の実戦では対処しきれないので、音読作業を通して、瞬時に直感的に分かる域にまで高めるという訳だ。あとは何度も英文に触れることで、一度覚えた単語を忘れにくくするという効果もある。
 
 でも元々分かっていない英文を読み直しても、そもそも分かっていないのだから、直感的に分かるようになるはずもない。そうしたやり方では、せっかくの音読作業もほぼ意味のないものとなってしまう。
 
 文法問題にしても、答の根拠も、問題のテーマも分からない状態で何度解き直しても、実戦で役立つ力が身につかないのは明らかなはずだ(全く同じ問題が出る定期テスト対策としては有効かもしれないが)。得てしてこうしたやり方をしてしまう生徒は、とにかく多くの問題をこなすことが重要だと思っている節があるが、問題数を減らしてでも、問題のテーマや答の根拠を理解する(必ずしも人に明確に説明できなくてもよい)ことにもっと時間を割くべきだ。
 
 さらに言えば、文法学習は、4択の文法問題(総じて入試ではあまり出ない)対策のためだけではなく、長文に役立つ視点でも学んでほしい。例えば不定詞には3用法あって、副詞的用法はさらに5つほどに意味(訳)が分かれて、そしてこういう特徴がある時はこの意味だ、といったことを整理して頭に入れることだ。
 
 いずれにしても、勉強している本人が問題意識や目的を持たず、何となくやっているだけで力がつくということは、ほぼあり得ない。確かに英語の勉強では、どうしても理屈で理解できないものを、何度も反復して先に理屈抜きで覚えてしまって、後から、あっ、こういうことだったのかと納得感を湧かせる、というやり方もある(実際私も学生時代にやっていた)。ただ、そういう手法が有効なこともあるというだけで、全ての勉強を「何となく」のやり方にしてしまっては、あまりにも効率が悪い。
 
 以上のように、音読といった巷で言われているよい勉強法も、前提が間違っていては効果がなくなってしまう。心当たりのある方は、ぜひ見直してみてはいかがだろうか。

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2018年4月30日 (月)

ネット検索に頼ると、単語をたくさん覚えなければならなくなる??

 ウチに来る生徒の大半は、覚えるべき単語が覚えられていないのだが(そしてこれこそが英語が出来ない理由の筆頭)、最近来た生徒(浪人生)はそうではなく、非常によく覚えていた。実際チェックをしてみると、使っている単語集(シス単)はほぼ完璧に覚えられていた。
 
 もちろんこのこと自体は非常によいことだし、こういう根本の作業をしっかり行う生徒は伸びるので、頼もしい限りなのだが、この生徒の場合ちょっとやり過ぎだった。入試問題の全てを暗記で対処しようとしていたのだ。使っているという生徒の単語集を見ると、あまり頻繁には見かけない難単語が結構多く書き加えられている。入試過去問などで出くわした分からない単語を、基本的に書き抜いたそうだ。
 
 当然ながら英語の大学入試問題は、全てを覚えた知識のみで対処するのは無理だ。合格者だって全てを覚えている訳ではない。問題によっては推測で対処するし、そもそも知識よりも思考力を問う問題もある。特別な難単語を知っているよりも、長文のテーマに関する知識を知っていたから得点できたという問題もあるだろう(AI、ベーシックインカムなど、最近は市販の問題集に載っていないような新ネタも出題される)。
 
 単語だけに話を絞っても、やはり確実に暗記しておくべきものと、推測で対処すればいいもの(あるいは全く知らなくていいもの)があるが、その分かりやすい境目は、市販の単語集に載っているかいないか、と考えていいのではないだろうか。やはり書物として世に出ているだけあり、十分検証はなされており、自分の感覚としても、単語集に載っているものを覚えていれば、逆に言えば載っていないものは覚えていなくても、合格点は取れるだろうと思える。
 
 ではなぜこの生徒は、全てを暗記で対処しようとしたのか? 基本的に真面目だからというのと、過去問で知らない単語に出くわすととにかく不安だからというのに加え、Googleなどでの検索も影響したようだ。早慶等の難関大だと単語集に載っている2000くらいでは足りない、といった情報に圧倒されてしまったのだ。ちなみにこの生徒は宅浪ということあって、ネットの情報の影響は大きかった。
 
 ただ一般的な単語集を覚えれば十分と思っている私は、そんなに極端な情報が多く出回っているのかと思い、ズバリ「早慶 単語 何個覚える」で検索してみたところ、実際の早慶の学生が相談を受けるサイトが見つかった。そこではシス単で十分とか、ターゲット1900の1500くらいしか覚えなかった、などの意見が多く、私としてはやっぱりそんなもんだよね、という感じだった。
 
 このように同じ事柄を検索しても(必ずしも同じワードで検索した訳ではないが)、生徒は単語はたくさん覚えるべきという情報により意識が向かい、私は市販の単語集の分量で十分という情報により意識が向かった。そしてその意識に応じてそれぞれ真逆と言える結論を出した。まさに今はこういうことが起こるのだ。実際Googleは、過去の検索履歴などにより、同じワードで検索しても人によって検索結果が違うようだ。
 
 情報が増え過ぎたことも問題だ。ネット検索は本当に便利で有益で、私はかれこれ20年以上お世話になっているが、それなりのキーワードで検索すれば、いかにも上手くまとまったページが上位にきて、いくつかの情報を総合すれば、調べたいことの全体像をつかむことも可能だったように思う。でも少なくとも3年くらい前から事情が変わってきた。もうあまりにも情報が多くなって、細かな点にこだわったり、確かにそこだけ考えれば事実かもしれないけど、全体から見たらどうなんだ?というサイトが増え、以前よりむしろ全体像はつかみにくくなった気がする。
 
 いずれにしても、情報過多の時代と言われて久しいが、もはや今はそんな言葉では言い足りないくらいの状況になってしまった。少し前までは検索の仕方を上手にして、いかにいい情報を得るかがポイントだったが、今はそれだけでは大量の情報に埋もれてしまい、つまりはどういうことなんだ、何が一番のポイントなんだ、ということはつかめずに終わってしまうかもしれない。
 
 という訳で今や検索をしさえすれば、正しい情報、その人にとって最適な情報が得られるとは限らない。これまで以上に、何が重要か、何が本質かを見抜く人間自身の能力を高めなければならないし、検索結果にしっくりこないなら、やはり生身の人間にも相談し、総合的な観点から結論を下すことが必要だろう。

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2018年3月27日 (火)

英語の入試改革は進んできたが

 2020年の大学入試改革で、英語は民間の試験を用いて4技能を測ることになっているが、昨日どの試験を採用するかが公表された。
 
 まあ着々と制度面での準備は進んでいるようだが、未だに肝心の思想面の合意が出来上がっていないというか、哲学が出来ていないという気がする。つまり本当のところどういう方向に向かいたいのか、実は合意が出来ていない、さらに言ってしまえば、未だに日本では、本当は4技能測らなくてもいいのに、と内心思っている人が結構いるのではないか。
 
 より実用的な英語力を測るために、英語の入試改革は必要だ、4技能を測ることも必要だと思っている人も、私を含めて多そうなのだが、あくまでも伝え聞く世の状況からそう思えるだけで(実は私もそうかもしれないのだが・・・)、自ら英語が話せないために、どうしても掴みたかったチャンスを逃してしまった、みたいに実感を込めて4技能を測る必要性を訴える人は、実は少数派な気がする。これほど国際化が叫ばれていながらも。
 
 結局日本人の多くは未だに、実際的には英語を必要としていないのだ。なので旧来通り入試の英語では、英語力そのものよりも、その背後にある知性や教養を見れればいいと思っている節がある。
 
 英語の入試改革のためには実はこのマインドの改革が一番重要だと、私は思っている。入試の英語では知性や教養よりも、使える英語力そのものを見るべきだということ、例えば、深みのある表現をじっくり解釈する能力よりも、拙い表現でも即座に言える能力の方が高く評価されるべきだということに、多くの人が納得することが、本当の意味の改革の第一歩だとと思う。
 
 では今回その点は変わりそうか? 残念ながら現時点ではそうとは言えない。実際先日東大は民間の試験を合否判定に使わない(=4技能を測らないということではないが)と表明したし、国立大学協会も民間の試験の配点を、英語全体の1割弱に抑えたいと考えているようで、早速トーンダウンしている。
 
 では改革を阻むのは東大や国立大のせいか? そういう面も否めないんだけど、もちろんそれだけではない。むしろ世論の盛り上がり(と言ったら大げさ?)が欠けていることが一番大きい気がする。
 
 そもそも日本の英語教育は、実践面で全く役立たないと昔から言われてきて、改善しようという動きだって結構前からあった。中高大と10年も学ぶんだからもっと実用的な英語を身につけさせたい、というのは概ね皆に受け入れられる考えだった。でもいざ改革をしようとなると、表立った抵抗ではないんだけど、やっぱり今のままでいいんじゃない、今の学校英語で下地を作れば実用英語は自分で習得できるよ(その二度手間を何とかしたいはずなんですけどね)、という空気感が高まってくるという不思議な矛盾があった。
 
 でもさすがにこれだけグローバルな時代となり、これまで実際的に英語が必要とされなかった人だって、いつ必要になるかは分からない。そうした状況を考えると学校で実用的な英語を身につけ、大学入試でもその力を問うというのは妥当な考えだ。
 
 上述のように英語改革の動きは以前にもあったが、今回こそは大きく変わるのではという期待があった。本当に今回こそ改革が尻すぼみになってしまわないよう(既にちょっとなりつつあるのだが・・・)、多くの日本人に、英語教育は実際的に使えることが第一に重要というマインドが生じ、実用的な英語力を問わない大学には行かないぞ、くらいの世論が出来上がることを望みたい。

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2015年12月31日 (木)

入試英語長文からの究極の学び

 このブログでは時折、印象深かった内容の入試英語長文を取り上げているが、最近特に、よく思い出される長文がある。それは、世紀を1つ戻した、1999年の昭和薬科大の問題で「しゃべるバクテリア」の話だ。

 あるたとえ話なのだが、内容は次のような感じだ。

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 試験管の中にバクテリアがいる。このバクテリアは1分で2倍に増殖する。そして試験管には、この増殖が1時間続けられるだけの食料等の資源と空間がある(つまり1時間で限界が来るので、それ以上は生きられない)。

 例えばちょうど11時に、試験管の中にバクテリアが1個入れられると、11時1分には2個になり、11時2分には4個になる。こうしたペースで増え続けていくが、ちょうど12時になると、資源も尽き、空間的にも限界となり、このバクテリアは全て死滅する。

 ちなみにこうした増え方だと、バクテリアが死滅する1分前の11時59分でも、まだ試験管の半分しかバクテリアはおらず(つまり半分の空きがあり)、死滅する2分前の11時58分では、4分の1のバクテリアしかいない(つまり4分の3も空きがある)ことになる。

 さてこの話では、11時58分ともなると、バクテリアも繁栄を極め、人間のようにコミュニティーを作り、政治家や実業家や環境学者、そして学生なども登場する、という設定だ。

 そして11時58分、試験管の中では次のような意見が交わされている。環境学者のバクテリアは、資源が尽きかけていると警鐘を鳴らすが、政治家は耳を貸さず、これまでのバクテリア史上使ってきた資源のまだ3倍もあるのだから、心配いらないと言う。実業家は政治家と同意見だが、資源に余裕があるから、他の試験管にそれを売って利益を上げようとさえ言う。そして学生は、どの意見が正しいのか判断に迷う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 といったわけだが、この話のポイントは、地球には環境収容力の限界があって、それを超えた人口は支えられないということと、人口は指数関数的に増えるので(あくまでも理論上の話だが)、限界に近づいていても気づきにくいということだ。

 この話は専ら、人口の問題のことを言っていて、世界の人口増加の問題(日本は減っているが)は、もちろん憂慮すべき問題だが、私が特にこの話と結びつけたくなるのは、温暖化を始めとした環境問題だ。

 最近増えている異常気象・気象の極端化も、これまでの人間の活動への警鐘を鳴らすものとして、つまり危機の始まりとして捉えられがちだが、実はもう限界が近づいていることの表れなのではないか。

 今月パリで、COP21という会議が開かれ、これまで以上に本腰を入れて、温暖化対策を行なうようになったが、それでもまだまだ甘いのではないか。

 テロといった治安の問題も同様で、最近の世界情勢の悪化も、危機の始まりではなく、危機の最終局面を表しているのではないか。はたまた日本社会の劣化も同様で・・・

 と、こんなことを考えていくと、自分は一人気楽に(授業は緊張感を持ってやってますよ)英語を教えている場合なのだろうか、などとも考えるが、もう自分には英語を教える以外のことはできなさそうだし・・・

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2015年11月30日 (月)

他者の評価よりも、自分の「思い」

 NHK Eテレの、テストの花道という番組がある。名の通り、主にテストで点を上げるための勉強法を教えるものだ。見方によっては、やや型にはめて、単純化しすぎているきらいもあるが、一見つかみどころがないと思われることでも、目のつけどころや、何をすべきかをはっきり示してくれるので、実戦的で分かりやすい。

 総じてよい番組だとは思うのだが、先日ちょっと気になることがあった。その日の放送は、文章の書き方を扱っており、自分ならではの観点を持とう、ということがポイントだった。実際にはまずは何人かの高校生に、「私のふるさとのすばらしさ」というテーマで、400字で自由に書いてもらい、それに対して、作文指導の先生やエッセイストの人が評価をする、という構成だ。

 残念ながら、その作文がどうしても思い出せず、ここで提示することができないのだが・・・NHKのHPに掲載されているかなと思ったけど、なかった・・・、私の第一印象としては、素朴で、ほのぼのしていて、まあまあいい文なのでは、と思った。

 ただ作文の出来云々よりも、印象に残っているのは、先生方の評価のコメントだ。やれ、「小学生の作文みたい」だの、「そんなことは実際に体験したことがない人でも書ける」だの、「中身が薄っぺらい」だの、挙句の果てには「郷土愛を感じない」だの、ダメ出しの嵐。番組構成上、インパクトを与えるためなのかもしれないが・・・それにしても、最近のテレビ番組は、あからさまに相手をディスる(若者言葉、使ってみました)ものが多い・・・、授業に関しては厳しく行なう私でも、生徒に同情してしまうくらいだった。

 言われてみれば、先生方の評価もごもっともで、生徒の作文に改善の余地はあった。でもここで問題なのは、生徒の「思い」にまで評価を下そうとしていたことだ。確かに、生徒の作文に拙さはあったが、少なくとも本音で書かれていたとは思われた。だから、その本当の「思い」のより効果的な表現法を助言するならともかく、その「思い」自体を、他者がとやかく言う筋合いはないはずなのだ。

 ちなみに私も、受験指導をする立場として、生徒にダメ出しをすることもあるし、特定の考え方に仕向けることもある。でも生徒の「思い」に対して、とやかく言っているつもりはない。それどころかむしろ、数年前から、本音が聞けなくて困惑してしまう。ここで当てはまる法則は何だっけ?みたいな質問には、生徒は躊躇なく答えるものの、長文の内容に関して、この話あなたはどう思う?と聞くと、戸惑いを見せる。また、長文問題を初見で解いた時の自らの感触なども、答えづらいようだ。

 日本の若者は(最近は大人もだが)、自分の意見を言わないとよく言われるが、それは上のような、自分の「思い」を否定されることが、大きく影響しているのだと思う。もっとも、ここで話題にしたテレビ番組だけを批判しているのでは全然ない。のんびりした雰囲気で見ていた時に、あまりにも激しいツッコミがあり、それが強く印象に残ったので、話の切り口として利用させていただいただけで、こうしたツッコミは、程度の差こそあれ、日本の至るところで・・・学校で、塾で、友達同士で、家庭で・・・行なわれているように思う。

 結構前から日本では、個性を生かそうという教育方針になっているはずなのに、未だに、思ったことを言うことが奨励されない。だから日本の大多数の人は、自分の意見を考えるよりも、空気を読んで、その場にふさわしい意見を考える方に力を注ぐ。

 本音が言えない教育をずっと受けてきたら、そうした人が育ってしまうのは当然だが、一方で就職してからは急に、変化の激しい、グローバルの時代、より個性的な発想が必要だ、などと言われる。酷な話だが、現代は確かにグローバルの時代。実際に個性的な発想は求められる。ただそれよりも前に、グローバルなコミュニケーション、つまり思ったことをはっきり言うことが必要だ。

 と言いながらも、これまでの経緯を考えると、今後も、教育現場での、いや日本全体での、思ったことを言うことが奨励されない空気は、あまり変わらない気がする。だから、とりわけグローバルに活躍したい学生諸君は、周囲の人の受けがよさそうな意見を言う一方で、揺るぎない自分の意見を常に持ち合わせておく、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 さて冒頭の、文章を書くことに話を戻すと、情報発信の盛んな現代、文章を書く力は絶対にあった方がいい。もちろん、自分の「思い」がこもった文を、だ。確かに学生時代は、入試の小論文を始め、他者の何らかの基準に則って、評価がなされる中書くことが多いだろう。だから、自分の「思い」というよりも、評価が高そうなことを優先して書くこともやむを得ないと思う。でも将来的に必要になるのは、そつのない優等生的な文が書けることよりも、やはり自分の「思い」がしっかり表れている文が書けることだ。学校を卒業した後に文章を書くのは、もはや試験の時ではなく、実際に言いたいことがある時だろうから、その言いたいことがしっかり表れているかが、価値基準となる。というわけで文章に関しても、学生諸君は、他者の評価が高そうな文章を書くにしても、自分の意見もしっかりと持ち、できたら そちらも表現をしてみる、といった自衛策を立てておいた方がよい。

 ちなみに私自身、文章を書くのは苦手で、自分の書いたものを読み直すと、色々と気になるところがあるが、中でも一番気になるのが、自分の頭の中にある思いや考えに比べて、書かれた文章は、どうもスケールダウンしているように思えることだ。つまり自分の「思い」がしっかり表れていないのだ。修行しなければ。

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2015年10月31日 (土)

学力の二極化 その2・・・対策の鍵は意識変革

 昨年も、学力の二極化について書いたことがある。以前なら出来る側に入っていた中間層が、出来ない側に回ってしまい、学力の二極化が起きている、という内容だ。そしてその理由は、中間層が、基本が確立しないまま、出来る人の勉強をまねてしまうから、さらに言えば、中間層が、単語や基本文法など覚えるべきことを確実に覚えないまま、問題集をこなすといった実戦的な勉強をメインにしているからだ、と述べた。

 出来る人の勉強法は、実戦的な問題集をどんどんこなしていく、といったことがクローズアップされるが、当然ながら、それが出来るから、あるいはそうしていて意味があるから、やっているのだ。

 例えば長文問題集では、全てとは言わないまでも、出てくる単語の大半は分かり、主旨をつかむには支障がないレベルになっていて、設問を間違えるにしても、そう多くはなく、解説を見ればすぐに納得がいくことが多い。いずれにしても、覚えていなかった単語を新たに覚えたり、分からなかった解法を習得したり、といった復習をするのに、そう時間はかからず、問題集を進めるペースが大きく乱れることはない。

 でも、出てくる単語がほとんど分からないという状態で、長文問題集に取り組んでも、そもそも英文が読めないのだから、実戦力を鍛える勉強にはならない。ましてや、よいペースを維持したいからと言って、分からない単語を放置して、どんどん先に進んでも、何の意味もない。

 だから、そのような状態の場合、実戦力は置いておいて、まずは単語の暗記などに徹するべきなのだ。そしてそれこそがまさに、中間層を出来る側に押し上げる、骨太の勉強法で、私は昔から、基本が出来ていない生徒には、問題集をこなさせるよりも、単語や文法といった基本事項の暗記を徹底させてきた。仮に問題集をやるにしても、数をこなしてナンボではなく、覚えてナンボ、という意識に変えさせてきた。

 ところが(ここからが、今回の記事の本題だが)、最近どうも、この意識変革が難しくなっている。別に面倒だから嫌だとか、反抗しているという訳ではないようだ(最近の生徒はむしろ真面目なので)。そうではなく今の生徒は、ある意味頑固になったというか、元々ある世界観を変えるのが難しいのだ。

 幸い元々、基本事項を確実に覚えるべきだ、という認識を持っている生徒は、昔も今も、事がスムーズに運ぶが、そうでない生徒に、認識を変えさせるのが、今は非常に難しくなっている気がする。

 自分の考えに自信を持つことは、もちろん大事だと思う。でもそれを絶対視したり、他者の考えを受け入れないのはよくない。高校生でも、もう全てを悟っているかのように話す人がいるが、若いのだから、自分にはまだ知らないことがたくさんある、と思う方が自然ではないか。

 ただ、生徒本人は意識を変えているつもりでも、そうなっていないということもありそうだ。根本的に世界観が違うものを理解するのは、思いの外難しい。分かったようで、分かっていなかったりする。

 長文問題集をどんどん進めるべきだと思っている人にとって、こちらの問題集の方がいいよ、といったアドバイスは、すんなり受け入れられるが、問題集をどんどん進めること自体が間違っている、という意見は、なかなか受け入れられない。そもそも思考回路にないので、無意識に聞き流してしまったりする。

 このように、全く違った考えは、そうすぐに理解できたり、納得できたりするものではないのだから、理解や納得を待って次に進むというよりも、まずはとにかく、言われるがままにやってみる、ということも必要だと思う。やっていくうちに、自分の中に変化が起こり、変化した後だからこそ、ようやく納得がいくということもあるのだから。

 英語に限らず、学力を上げるために、皆何らかの方策を考えるだろうが、今までの延長線上で考えることが多い。もちろんそれでよい場合もあるが、そうでない場合もある。少なくとも、今までのやり方で上手くいかなかったのなら、画期的に違う方法を試してみる価値はあるのではないか。たとえ最初は納得がいかなくても。

 今の生徒は、昔に比べて、納得感をより求めてくる気がする。もちろんこれは、自然なことだが、所詮その納得感は、まだ変化していない自分が感じるものだ。よりダイナミックな変化をもたらしてくれるのは、今の自分では納得がいかないほどスケールの大きいことだったり、全く世界観が違うものだったりするかもしれない。

 特に中間層の人、つまり出来る側に回るか、出来ない側に回るかの分かれ目にいる人は、ぜひ勇気を持って、違った世界に足を踏み入れてほしい。そして出来る側に回ってほしい。

 私は私で、納得感云々を話題にせずとも、知らぬ間に骨太の勉強をするようになる、といった方法も考えているのだが、果たして、そうした方法が見つかるかは微妙なところだ。今はとにかく、生徒にチャレンジしてもらうよう、上手く働きかけるのみだ。

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2015年9月30日 (水)

5年ぶりに政治の話・・・安保法案の件で思ったこと

 このプログは、2010年の10月に始めたので、今月で丸5年が経ったことになる。細々とだが(本当に細々)、よく5年も続いたものだと、我ながら感心する。

 ちなみに第1回目の記事は、家庭教師のブログなのに、なぜか「貧者の兵器とロボット兵器」という、ある意味政治の話題だった。それから5年が経った今月、奇しくも安保法案の可決という、大きな政治的な動きがあったので、今回はそのことを書いてみたいと思う。

 ただ、安保法案に関連した一連の動きで、私が関心を持ったのは、法案に対する賛否とか、可決したことそのものよりも(一応私は賛成派だが)、反対運動をきっかけに生じた、庶民は法案に反対しなければならない、という空気感だ。

 その顕著な例が、ある有名人が、反対派の運動にちょっと異を唱えただけで、それどころか、賛成派の意見も聞きたいと言っただけで、SNSが炎上してしまったということだ。

 この過剰な反応は、当時から気になっていたが、政治家や官僚はともかく、一般国民は、自分たちに賛成してくれて当然だ、という思いがあったのだろうか。あるいは国会に法案を通されてしまいそうな状況の中、せめて庶民は自分たちの味方をしてほしい、という思いが強かったのだろうか。

 信念を持ってやっている行動に、異を唱えられるのは腹が立つというのは分かるのだが、それにしても、庶民は自分たちに賛成して当然とまでなるのは、行き過ぎだ。世論調査では、確かに反対派の方が多かったようだが、賛成派も一定数はいたわけだし。

 この現象で、私はあることが思い浮かんだ。それは、昔からある日本特有の「お上意識」だ。お上意識とは、上の人(例えば政治家や官僚)が何事も上手くやってくれるんだから、庶民としてはお任せして、それに従っていればいいんだよ、という感覚だ。

 とすれば、今回の件とはむしろ真逆ではないか、ということになるが、このお上意識には変形版がある(と私は勝手に思っている)。つまり、お上には従う(従わざるを得ない)けど、文句の一つくらい言わせてくれ、というものだ。

 お上は上手くやると言っても、場合によってはそうでない時もあるし、人によっては納得いかないということもある。そんな時でも、昔の(今もかな?)日本は得てして、お上の言う通りになるのだが、ただ言う通りでは、庶民の立つ瀬がない。だから文句くらいは言う権利があるのだ。ただし残念ながら、文句によって事態が変わることはない。なのでその分、どんなに厳しいことでも言えるし、また周りの人も、その文句に異を唱えてはいけないのだ。

 今回の安保法案への反対運動をした人たちが、実際にこうした意識で動いていたとは全く思わないけども、異を唱えられることへの過剰な反応が、事態は変わらないのだから、文句くらいは言わせてくれよ、といった上述のお上意識の変形版を、私に連想させた。それゆえ、どこか勢いの弱さを感じさせた。

 反対派はそうであって欲しかったのかもしれないが、安保法案は必ずしも、お上対庶民で、意見が分かれた問題ではない。上でも言ったように、一般国民にも賛成派は一定数いたのだから。なので本来なら、庶民で賛成派はけしからんと、切り捨てるのではなく、またお上だけと対抗するのでもなく、賛成派の庶民とも、対等な立場で意見をぶつけ合わせていくべきだったのではないかと思う。

 ちなみに最近よく思うのは、日本人は、この対等な立場で意見をぶつけ合わせていくのが苦手だな、ということだ。安保法案の件だって、賛成・反対に分かれるのは当然で、しかも本来は、中立な状態でどちらかが選べるはずだ。

 でも日本人は、中立な状態のまま進むことはなく、どこかで主流、非主流を作り(庶民自らが)、ある種、意見がコントロールされてしまう。ちなみに庶民においては大体、主流は立場の弱い側で、非主流は権力を持った側だ。意見の妥当性で分かれることはあまりない。

 例えば安保法案の件で言えば、庶民においては、国会の多数派に押し切られてしまうであろう、立場の弱い反対派が主流となり、その逆の賛成派が非主流となる。

 日本で、この主流、非主流の構図が出来ると、意見の妥当性とは関係なく、主流側の意見を選んだ人は、批判されなくて済む、という安全が得られ、非主流側の意見を選んだ人は、安全策が用意されているのに、あえて選ばなかったのだから、批判されて当然という位置づけになる。

 こうしたことから、庶民が意見表明をする際は、この雰囲気を察知して、主流の方を選んでおこう、となってくることが多い気がする。実際、今回の安保法案の件では、芸能人も意見表明をしたということが話題になったが、ほんの一部の例外を除いて、皆判で押したように、反対の意見ばかりだった。もちろん、心から反対しているのだな、という人もいたが、多くは、やはり批判されなくて済むという安全策で、反対と言っているだけなのではと思えた(勝手な推測だが)。

 テレビニュースの伝え方も歯切れが悪かった。国会前のデモの様子を映して、こうした声は議員の皆さんには届いているのでしょうか、みたいな伝え方が多かった気がするが、これも庶民の主流を意識した結果ではないかと思う。

 その伝え方は、正面から議員を批判しているわけではないから、報道の中立は一応守られていると言えるのかもしれない。でも例えば、起こり得る危機を挙げて、反対派の人たちはこうしたことを考えているのでしょうか、といった報道は一度もなかった気がするから、結局は、反対派よりの報道が多かったとも言える。言いかえれば、マスコミも、庶民の主流を意識した報道をしたことになる。

 日本は一応、民主主義国家だ。言論の自由も保証されている。でも未だにその行使の仕方が未熟だ。非主流を作って叩くことに躍起になるのではなく、対等な立場で意見をぶつけ合わせるのが普通になる日が、早く来てほしいものだ。

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2015年8月31日 (月)

何事もバランスが大事・・・清潔さもほどほどに

 少し前にあるテレビ番組で、ダニアレルギーの最新治療を取り上げていた。それは、ダニから抽出した成分を含むエキス、言うなればダニエキスを体内に取り入れ、それによって、アレルギー物質に対して、徐々に体を慣らしていくというものだ。まさにダニはダニで制す、なのだ。

 これが最新治療なのかと、最初はちょっとズッコケたが、ああ、でもやっぱりそういうものだよなと、大いに納得がいった。やはり自然の摂理として、汚いものや嫌なもの(といっても人間の勝手な基準によるものだが)でも、排除すれば済むというものではなく、ある程度付き合わざるを得ないのだなと、改めて思った。

 ダニアレルギーの原因は、言うまでもなくダニだ(もう少し正確に言うと、ダニの死骸や糞のようだが)。であれば、ダニアレルギーを防ぐには、ダニを排除すればよいと考えるのは、ある意味理に適っている。

 でも現実には、ダニを完全に排除するのは無理なはずだし、そもそも、ダニは身近に普通に存在するもので、それを完全に排除しようとするのは、自然の摂理に反する気がする。また人間が、そうしたものを排除しなければ、生きられない存在となるのも、やはり自然の摂理に反する気がする。

 ダニによって起こる問題に対処するために、ダニを避けたり、排除したりしようとしたものの、上手くいかず、結局ダニと適度に付き合うことが、一番よい解決策だった、というのは何とも皮肉な話だ。わざわざダニからエキスを作って注射するくらいなら、初めからダニに接して、免疫を作っておけばよかったのだ。

 ちなみに、ダニの問題とは同列に扱えないかもしれないが、スギ花粉症においても、注射などで、花粉の成分を含んだエキスを体内に入れる、という治療法が有効なようだし、食物アレルギーでも、原因となる食物を少しずつ摂取していく、という治療法が有効なようだ。少なくともこれらも、排除だけでは対応に限界があり、適度に付き合う方がむしろ効果的だ、という例だろう。

 前から思っているのだが、とかく日本人は、衛生面に関して神経質すぎる。しかも、真面目さ、ストイックさも手伝って、汚いもの(あくまでも人間基準)を徹底的に排除しようとする。その結果、そうしたものに対する免疫(抵抗力)が弱くなって、それを補う薬などで対抗しようとする。日本人は真面目だから、この点でも頑張って、よい薬を作ったりするが、元々人間側に抵抗力がきちんとあれば、本来そのことは、やる必要のなかったことだ。しかもその薬が、ダニから作ったダニエキスだったりする。

 せっかくの日本人の真面目さを、そうした本来やる必要のなかったことに向けてしまうのは、もったいない。もっと大局観に立って行動してほしいものだ。ダニエキスの件で、せっかく自然界から、もはや排除だけでは、問題は解決できないことを教わったのだから、共存の方向にかじを切り、多少問題となるものがあっても、別に排除せずに生きていけるよう、人間側が変わるべきだ。

 もちろん、既にアレルギーの方は、そんな悠長なことは言っておれず、とにかく今の症状をおさえる対応が必要なのも、理解しているつもりだ。でも根本的な方向転換をしないと、人間側の抵抗力が弱まって、新たな薬などで対応し、その結果また抵抗力が弱まってと・・・どんどん人間が弱くなっていく、この悪循環が止められないと思う。

 ダニエキスの件をきっかけに、真面目な日本人が、近視眼的に事を進めるのではなく、大局観に立った、自然の摂理に反しない、バランスのとれた考え方をしてくれることを望みたい。人間だって自然物なのだから、自然な状態からあまりにもかけ離れた環境で生きようとするのは間違いなのだ。

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2015年7月31日 (金)

長文が出来ないのに長文をやる?

 「英語の長文が苦手なのですが、どうしたらよいでしょう?」という相談に対して、「長文をたくさん読んで長文に慣れよう」という指示がされることが多い。これは、ある意味正しいかもしれないが、そうした相談をする人の一般的な思いを考えると、必ずしも正しいとは言えなくなる。

 そもそも長文が苦手だと、長文をたくさん読むことは出来にくい(逆にたくさん読めるくらいなら、苦手ではないことになる)。だから上の指示を守ってたくさん読むためには、精度を下げた大ざっぱな読み方をするか、現段階でも楽に読める易しい教材を選ぶ必要がある。

 大ざっぱな読み方でも、難しい長文にチャレンジすることは必要な勉強だが、それだけでは、根本的な力の底上げにはならないし、一歩間違えると、どんな時でも雑に読む癖がついてしまう。一方、易しい英文ならたくさん読むことはしやすいが、難しい長文が読めるようにはならない。

 恐らく、長文が苦手でどうしたらよいかと相談する人の多くは、今読めるより難しい長文が読めるようになりたい、という思いがあるはずだが、結局どちらのやり方をしても、その目的にはかなわないことになってしまう。

 でも考えてみれば、これは当然のことだ。長文が読めるようになるために長文をやるというように、目的と手段が同じになってしまっているのだから。

 本来これはおかしなことで、例えば、逆上がりが出来ない人に、たくさん逆上がりをして慣れればよい、という指導はしないはずだし、泳げない人に、とにかく泳げばよい、という指導はしないはずだ。

 なのに勉強においては、意外とこの本来おかしなことが、まかり通ったりする。上述の英語長文の件の他にも、国語が苦手な人に、本をたくさん読みなさい、と指導するのもその例だ(そもそも国語が苦手だと本はたくさん読めないはずだが)。

 最終目標に至るには、色々な過程があり、順を追ってその過程を進んでいくべきなのに、最終目標ばかりに目がいってしまい、最終的に出来るようになればよいことを、早くも練習の過程で取り入れてしまうという過ちが、勉強では意外と見られる気がする。

 逆上がりが出来ない場合、まずは筋トレをするとか、足で蹴る練習をするとかをして、最終的に逆上がりが出来ることを目指すはずだが、英語の長文となると、長文を目指すならやはり長文をやるべきだ、となってしまいがちだ。

 もちろんある時には、上述のように、たとえ読みの精度が下がっても、難しい長文に取り組んだり、易しい長文を多く読んだりして、長文に慣れるという作業は必要だ。でもそれだけでは、根本的なレベルアップにはならない。

 一時は長文から離れて、単語・熟語をひたすら覚える、短い文をきちんと訳す、という作業を積んでから、長文に取り組んだ方が効果的なことが多い。特にかなり苦手なところから始めるのなら、なおさらだ。

 今は大事な夏休みの時期だ。入試本番を意識した実戦面が気になるかもしれない。でも最終的に求められることが、今やるべきこととは限らない。目的と手段を混同せず、パランスのよい勉強をすることが必要だ。

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2015年6月30日 (火)

英語長文は、小ネタの宝庫 その2

 先月話題にした小ネタの続きだが、取り上げるのは 2014年 慶応大(理工)第1問の長文だ。解こうと思っている受験生は、ネタバレになるのでご注意を。

 その長文のテーマは、人は外向的でなければならない、とするアメリカの文化に対する異論だ。そこには、アメリカは個性を尊重すると言いながら、外向的な性格しか認めない風潮があること、アメリカでも、外向的なふりをしているだけで、実は内向的な人も結構いること(統計によれば国民の1/2から1/3)、外向的な性格のみを理想とするのは間違いで、偉大な思想や発明は、自分の内面と静かに向き合うことから生まれていることも意識すべきだということ、などが書かれていた。

 この話は、面白いという類のものではないかもしれないが、何となく固定観念として持ってしまっていた、アメリカ人の国民性が覆され、本音の部分が垣間見えたというところで、興味深かった。

 そもそもアメリカ人は、それこそ全員明るいのだろう、というくらいのイメージがあったが、よく考えてみれば、3億人もいるアメリカ人全員が明るいというのもおかしな話で、やはりそんなことはなかったのね、という何か腑に落ちた思いだ。

 自由の国アメリカで、外向的でなければならないという心理的圧力がかかる、というのは意外だが、これに異を唱える意見が正々堂々と提示されるのも、やはり自由の国アメリカらしいなと、改めてアメリカのダイナミズムを感じる。

 ちなみにこの長文は、Susan Cain(スーザン・ケイン)のQuietという本からの抜粋のようだが、この話は、TEDが主催する有名なプレゼンイベントで、The power of introverts(内向的な人のパワー)という題で、Cain自身が2012年に講演している。NHKのEテレでも放送されていたし、ネットでは今でも見られる。

 それを見ると、入試長文の抜粋には載っていない核心部分が分かり、一層興味深い。現在世の中で私たちが直面している問題は、大きく複雑で、多くの人が協力しなければ解決できないことが多いが、だからと言って、常にグループ作業で皆でワイワイ事を進めるのもおかしい。まずは各人が一人静かにじっくり考えてアイデアを出し、それからそのアイデアを持ち寄って、ほどよく話し合うという方が、よい解決策が出せたりする。こうしたことができない、つまり内向的な人が力を発揮できない状況は、社会的にも損失だと、Cainは主張している。

 講演でCainは、自身の子供時代のサマーキャンプの体験も語っていた。皆で活動的にやるという精神を植えつけるために、全員でリズムに乗って「にぎやかに行こう!」などと何度も唱えさせられ、ちょっと一人で本を読もうとしたら、世話役の人が心配そうな顔でやって来て、皆で楽しくやらなければダメじゃないか、と言われたそうだ。こうした話を聞くと、アメリカでは、内向的だと本当に気苦労が多いのだな、ということが実感として伝わる。

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 さて全く話は変わるが、皆さんは、400年に3回、うるう年のはずなのにうるう年でない年があるのをご存知だろうか?

 言うまでもなく、うるう年は4年に1回やってくる。地球は太陽の周りを、約365と1/4日で回っていて、4年で約1日分足りなくなるので、それを補うためだ。

 しかしここでちょうど1日分を足すと、今度はほんの少し余剰分が生じ、それが400年で約3日分となるのだ。なので、この余った3日分を削るため、400年に3回、うるう年のはずの年をうるう年にせずに調整するのだ。

 ではどの年をうるう年にしないかというと、それは、400で割り切れない00で終わる年だ。だから、400で割り切れない1700年、1800年、1900年はうるう年でなかった。でも2000年は割り切れるので、通常通りうるう年だったのだ。

 私はこの話を何で知ったかと言うと、やはり英語の長文だ。それも20年以上も前の、1994年の桐朋高校の入試問題だ(こちらは大昔のものなので、ネタバレは気にせず・・・)。

 ちなみに2000年は普通にうるう年だったが、上述のことから、考えようによっては400年に1回の珍しい年とも言えた。なのでその年に、ニュースなどで報道があるのかなと思っていたが、残念ながらなかったように思う。

 それどころか私は、上記の事実を、その英語長文でしか見ていない。知り合いからも聞いた覚えはないし、学校でも習った記憶はないし(教えたという先生がいたのかもしれないが)、テレビなどでも見た覚えはない。つまり私は、1994年にその英語長文を見なければ、未だにその事実を知らなかったかもしれないのだ。やはり英語長文は、小ネタの宝庫なのだ。

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